マクルズフィールド伯爵

マクルズフィールド伯爵(マクルズフィールドはくしゃく、英語: Earl of Macclesfield)は、2度にわたって創設されたイングランド貴族ないしグレートブリテン貴族伯爵位。

マクルズフィールド伯爵
Arms of Parker, Earl of Macclesfield
Gules, a chevron between three leopard's faces, or[1]
創設時期1721年
創設回数2
創設者ジョージ1世
貴族イングランド貴族
初代トマス・パーカー
現所有者9代伯リチャード・パーカー英語版
相続人(ジョナサン)デイヴィッド・ジョフリー・パーカー
付随称号パーカー子爵
ユーウェルムのパーカー男爵
邸宅シャーバーン城英語版
モットーSapere aude (敢えて賢くあれ)[2]

歴史

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第1期 (ジェラード家)

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イングランド貴族としての最初の創設は1679年で、兵士であり政治家であった初代ジェラード男爵チャールズ・ジェラード英語版のためにこの爵位が設けられた。ジェラードは既に、1645年に「サフォークブランドン英語版ジェラード男爵」として叙爵されていたが、伯爵位の叙爵とともに、ブランドン子爵 (Viscount Brandon) も与えられた。これらの爵位はいずれもイングランド貴族のものである。この初代伯爵は、高名な判事で、1581年から1594年まで記録長官(Master of the Rolls) の任にあったサー・ギルバート・ジェラード英語版の曾孫にあたった。初代の跡は長男が爵位を継承した。

第2代伯爵チャールズ・ジェラード1683年ライハウス陰謀事件に関わり、死刑判決を受けたが、その後、国王チャールズ2世の特赦によって赦された。1701年に没したときに嫡子はおらず、弟が襲爵して、第3代伯爵となった。

第3代伯爵フィットン・ジェラードは、襲爵以前にヤーマス英語版ランカスター英語版ランカシャー英語版から選出されて、庶民院議員となったことがあった。1702年に第3代伯爵が没した際に継承資格のある者がおらず、廃絶した。

第2期 (パーカー家)

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1721年グレートブリテン貴族としてマクルズフィールド伯爵位が再度創設された。有名な法律家であった初代パーカー男爵トマス・パーカーが、「オックスフォード州ユーウェルムのパーカー子爵 (Viscount Parker, of Ewelme in the County of Oxford)」および「パラティン郡チェスターのマクルズフィールド伯爵Earl of Macclesfield, in the County Palatine of Chester)」に陞爵した[3]

初代伯爵トマスは、1710年から1718年まで王座部主席判事英語版 (Lord Chief Justice of the King's Bench) を務め、1718年から1725年まで大法官の任にあった。パーカーは既に1716年に、「パラティン郡チェスターのパーカー男爵」て「パーカー卿 (Lord Parker)」となっていた[4]。これもグレートブリテン貴族の爵位のひとつであった。男爵位とは異なり、新たな子爵位や伯爵位は後継者が決められていたが、初代伯爵には男子の嫡子がいなかったため、ハーズリー・ハウス英語版の初代准男爵サー・ウィリアム・ヒースコート英語版夫人となっていた娘エリザベスへ、さらにその息子へと爵位は継承されるものとされた。1725年、トマスは汚職の罪を問われ、3万ポンドの支払いを強いられた。爵位はその後、娘の長男が襲爵し、第2代となった。

第2代伯爵ジョージ・パーカーは、優れた天文学者であり、王立協会の会長を何年も務めた。爵位は長男が襲爵した。

第3代伯爵トマス・パーカーは、襲爵以前にニューカッスル・アンダー・ライム英語版オックスフォードシャー英語版ロチェスター英語版から選出されて、庶民院議員となったことがあった。

第3代伯爵の跡は、長男ジョージ・パーカー英語版が第4代として襲爵した。彼は優れた政治家で、1816年から1818年にかけて、農業省大臣 (President of the Board of Agriculture) を務めた。

第4代の死去後、爵位は弟トマス・パーカーが第5代として襲爵した。第5代の跡は、その息子が第6代として襲爵した。

第6代伯爵トマス・パーカーは、襲爵以前にオックスフォードシャーから選出されて、庶民院議員となり、保守党に所属していた。第6代の跡は、その孫が第7代として襲爵した。

第7代伯爵ジョージ・パーカー英語版は、第6代伯爵の長男であったパーカー子爵(儀礼称号)ジョージ・オーガスタス・パーカー (George Augustus Parker) の息子であった。このマクルズフィールド卿は、1954年から1963年まで、地方統監の任にあった。

2014年現在、この爵位を保持しているのは、1992年に父である第8代ジョージ英語版の跡を襲爵した、第7代伯爵の孫にあたる第9代伯爵リチャード・パーカー英語版である。

パーカー家の居城は、オックスフォード近郊のシャーバーン城英語版であるが、この城とその敷地は、マクルズフィールド家の資産管理会社であるビーチウッド・エステート社 (the Beechwood Estates Company) の所有となっている。2004年末、第9代伯爵は、長期にわたった厳しい法廷闘争の果てに、この居城から追い立てられた。

一族

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チャールズ3世カミラの最初の夫であったアンドリュー・パーカー・ボウルズは、母方の姓を継いだデレク・ヘンリー・パーカー=ボウルズ (Derek Henry Parker-Bowles) の息子であり、第6代伯爵の三男アルジェモン・ロバート・パーカー師 (Reverend the Hon. Algernon Robert Parker) の孫であった。このため、パーカー・ボウルズ准将は、この伯爵位およびこれに付随する爵位と、遠いながらも縁があることになる。

第6代伯爵の次男セシル・トマス・パーカー師 (Cecil Thomas Parker) の息子であるウィルフレッド・パーカー師 (the Right Reverend Wilfred Parker, 1883 - 1966) は、プレトリア主教を務めた。

歴代伯爵

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マクルズフィールド伯爵(1679年創設)

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マクルズフィールド伯爵(1721年創設)

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推定相続人は弟(ジョナサン)デイヴィッド・ジョフリー・パーカー閣下 (the Hon. (Jonathan) David Geoffrey Parker) (1945 - ) である。

出典

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  1. ^ Debrett's Peerage, 1876, p.314
  2. ^ Debrett's Peerage, 1876, p.314
  3. ^ "No. 5986". The London Gazette (英語). 29 August 1721. p. 1. 2013年10月4日閲覧
  4. ^ "No. 5414". The London Gazette (英語). 6 March 1716. p. 1. 2013年10月4日閲覧

関連項目

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参考文献

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  • Kidd, Charles, Williamson, David (editors). Debrett's Peerage and Baronetage (1990 edition). New York: St Martin's Press, 1990, [要ページ番号]

外部リンク

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