ボビー・アンサー
ロバート・ウィリアム・”ボビー“・アンサー(Robert William“Bobby”Unser、1934年2月20日 - 2021年5月2日)は、アメリカの元レーシングドライバー。 1968年、1975年、1981年のインディ500で3度優勝した事で知られる。
ボビー・アンサー Bobby Unser. | |
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基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
生年月日 | 1934年2月20日 |
出身地 | コロラド州コロラドスプリングズ |
死没日 | 2021年5月2日 (87歳没) |
死没地 | ニューメキシコ州アルバカーキ |
生い立ち
編集アンサーはコロラド州コロラドスプリングスで生まれる。 生まれて間もない頃に、家族はニューメキシコ州アルバカーキに移り、そこで父親が国道66号線沿いにガレージを建てた。 1953年から1955年までアメリカ空軍に勤務し、空軍内でトップクラスの狙撃手となった。
レース経歴とインディ500
編集ボビーは1949年に15歳でレースキャリアを始めた。
1950年のサウスウェスト・モディファイド・ストックカーで初のチャンピオンシップを獲得した。1955 年、ボビーとジェリー・アンサー・ジュニア(英語版)とアル・アンサーはUSACでレースのキャリアを追求することを決意するが。1959年に兄のジェリーがインディアナポリス500の練習中の事故で亡くなった。
インディ500では1968年と1975年、1981年にそれぞれ優勝している。
1981年インディ500
編集1981年のインディ500でボビーは前年の改良型であるウイングカーのペンスキー・PC-9Bに搭乗していた。
序盤からレースを先行して逃げ切り、1位でチェッカーを受けたが、149周目にピットストップからレースに復帰する際に、イエローフラッグが振られている時に8台を追い抜いた事が後に問題になった[1]。
レース後に2位で完走したマリオ・アンドレッティが所属するパトリック・レーシングから抗議を受け、ボビーとペンスキーは訴訟を起こし、勝訴するが代わりに4万ドル[2]の罰金を払う事になった。
この結果に失望したボビーはインディ500の世界から引退した[3]。
晩年
編集その後はパイクスピークに活動を限り、1986年にアウディ・スポーツ・クワトロS1で優勝した。
インディ500のTV中継で解説者として呼ばれた時があった。
2021年5月に老衰で亡くなる[3]。
記録
編集アメリカン・チャンピオンシップ・カー・レーシング
編集NASCAR
編集人物
編集高度なテクニック、攻めの姿勢を保ったドライビングで高く評価されている[4]。
上記の事件が原因からマリオ・アンドレッティとは犬猿の仲だった。
1985年のパイクスピークで、フランスのラリードライバー、ミシェル・ムートンが当時のコースレコードを更新して総合優勝した際は「私の国で生意気なことを」と激怒した[5][6]。
脚注
編集- ^ 『インディー500』二玄社、1994年、p.157。
- ^ 現在の金額で12万9千ドル(日本円で約1829万円)にあたる。
- ^ a b “インディ500優勝3度のレジェンド、ボビー・アンサー亡くなる。享年87”. jp.motorsport.com (2021年5月4日). 2023年7月25日閲覧。
- ^ “追悼 ボビー・アンサー”. Honda.Racing (2021年5月5日). 2023年7月25日閲覧。
- ^ “パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム”. Red Bull (2017年4月10日). 2023年7月25日閲覧。
- ^ 当時のパイクスピークはアメリカのイベントという印象が強く、それまで外国人ドライバーで優勝した事は無かった。 また、パイクス・ピークは、ボビーが今大会の常連で何回も優勝した事がある事からアンサー・マウンテンと呼ばれていた。