ホセ・マヌエル・モレノ (サッカー選手)

ホセ・マヌエル・モレノ・フェルナンデス(José Manuel Moreno Fernández、1916年8月3日 - 1978年8月26日)は、アルゼンチンブエノスアイレス州出身のサッカー選手。ポジションはフォワード(インサイド・ライト)。1940年代に「ラ・マキナ (機械)」と呼ばれたCAリーベル・プレートの一員である。

ホセ・マヌエル・モレノ
名前
本名 ホセ・マヌエル・モレノ・フェルナンデス
José Manuel Moreno Fernández
愛称 エル・チャロ (El Charro)
ラテン文字 José Manuel MORENO
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 (1916-08-03) 1916年8月3日
出身地 ブエノスアイレス
没年月日 (1978-08-26) 1978年8月26日(62歳没)
選手情報
ポジション FW
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1935-1944 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 256 (156)
1944-1946 メキシコの旗 クラブ・エスパーニャ 41 (11)
1946-1948 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 64 (24)
1949 チリの旗 ウニベルシダ・カトリカ 22 (8)
1950 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ 22 (6)
1951 チリの旗 ウニベルシダ・カトリカ 12 (2)
1952 ウルグアイの旗 デフェンソール 14 (3)
1953 アルゼンチンの旗 フェロカリル・オエステ 15 (1)
1954-1956 コロンビアの旗 インデペンディエンテ・メデジン 40 (12)
1960-1961 コロンビアの旗 インデペンディエンテ・メデジン 3 (1)
通算 489 (224)
代表歴
1936-1950 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 34 (19)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

2000年には、国際サッカー歴史統計連盟により20世紀最高の選手を決めるランキングにおいて25位、南米部門では5位に選ばれた[1]

経歴

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クラブ

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ブエノスアイレス州ラ・ボカで生まれる。15歳でボカ・ジュニアーズのトライアウトを受けるも不合格に終わった。アルゼンチンサッカー協会によると、モレノは「近いうちにこのことを後悔するだろう」と言ったとされる。その後、1933年にボカ・ジュニアーズのライバルチームであるCAリーベル・プレートのリザーブチームに加入。

 
モレノ (左) とアルフレッド・ディ・ステファノ (右)

18歳の頃、他の若い選手と共にブラジルツアーのメンバーに選ばれ、ボタフォゴFR戦でリーベル・プレートのトップチームでデビューした。1935年3月17日のCAプラテンセ戦でプリメーラ・ディビシオンでデビュー。その試合では1得点を挙げ、2-1での勝利に貢献した。1936年、1937年のリーグ優勝に大きな役割を果たし、アンヘル・ラブルナアドルフォ・ペデルネラフェリックス・ロウストウフアン・カルロス・ムニョスらと共に「La Maquina (機械)」と呼ばれるチームを構成した。

1944年、前年から始まったメキシコリーグのクルブ・エスパーニャに加入。1943-44シーズンには2位となり、その翌シーズンにはリーグ初優勝を果たした。1946年にリーベル・プレートへと戻った。その後もボカ・ジュニアーズなど様々なクラブでプレーし、1954年にインデペンディエンテ・メデジンへと移籍。ここでは、選手兼任監督としてプレーした。1955年にコロンビアリーグを優勝し、4つの異なる国(アルゼンチン、メキシコ、チリ、コロンビア)のリーグで優勝を経験した初めての選手となった。1961年に現役を引退。同年、インデペンディエンテ・メデジン対ボカ・ジュニアーズの引退試合が行われた。

引退後は1959年にアルゼンチン代表を率いたほか、ボカ・ジュニアーズやCAウラカンCSDコロコロなどのクラブの監督を務めた。

代表

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アルゼンチン代表として34試合に出場して19得点を挙げた。

1941年、1942年、1947年と南米選手権で3度優勝を経験。1942年大会では7得点を挙げ、同国代表のエルミニオ・マサントニオと並んで得点王となった。そのほか、1947年大会では大会最優秀選手にも選ばれた。モレノは同大会で計13得点を記録し、大会歴代最多得点者となっている。また、エクアドル代表との試合で、大会500ゴール目も記録した。

タイトル

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クラブ

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リーベル・プレート
クラブ・エスパーニャ
ウニベルシダ・カトリカ
インデペンディエンテ・メデジン

代表

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アルゼンチン代表

脚注

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