ヘンリー・ペラム=クリントン (1750-1778)
ヘンリー・ファインズ・ペラム=クリントン(英語: Henry Fiennes Pelham-Clinton、出生名ヘンリー・ファインズ・クリントン、1750年11月5日 – 1778年10月18日)は、グレートブリテン王国の政治家。1772年から1778年まで庶民院議員を務めた。1752年から1768年までクリントン卿の儀礼称号を、1768年から1778年までリンカーン伯爵の儀礼称号を使用した。
生涯
編集第9代リンカーン伯爵ヘンリー・ファインズ・クリントン(1720年 – 1794年、後の第2代ニューカッスル=アンダー=ライン公爵ヘンリー・ファインズ・ペラム=クリントン)とキャサリン・ペラム(Catharine Pelham、1727年7月24日 – 1760年7月27日、イギリス首相ヘンリー・ペラムの娘)の次男として、1750年11月5日に生まれ、12月3日に洗礼を受けた[1]。1752年に兄ジョージが死去すると、父の法定推定相続人になった。1763年から1767年までイートン・カレッジで教育を受けた[2]。
1772年5月にアルドバラ選挙区で庶民院議員に当選、1774年イギリス総選挙でノッティンガムシャー選挙区に鞍替えして再選した[2]。議会ではノース卿政権を支持したが、演説の記録はなかった[2]。
1774年にロンドンのセント・ジェームズにあるアーリントン街22番地の邸宅を継承、以降死去までそこに住んだ[3]。
1778年10月18日にフランスで死去した[1]。ウェストミンスター寺院に埋葬されたという説があるが、『完全貴族名鑑』第1版では誤りだとしている[1]。
家族
編集1775年5月22日、フランシス・シーモア=コンウェイ(Frances Seymour-Conway、1751年12月4日 – 1820年11月11日、初代ハートフォード侯爵フランシス・シーモア=コンウェイの娘)と結婚、1男1女を儲けた。
- キャサリン(1776年4月6日 – 1804年5月18日) - 1801年10月2日、フォルクストーン子爵ウィリアム・プレイデル=ブーヴェリー(後の第3代ラドナー伯爵)と結婚、子供あり
- ヘンリー(1777年12月23日 – 1779年9月23日) - 1778年から1779年までクリントン伯爵の儀礼称号を使用した
出典
編集- ^ a b c Cokayne, George Edward, ed. (1895). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (N to R) (英語). Vol. 6 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 25.
- ^ a b c Christie, I. R. (1964). "PELHAM CLINTON, Henry Fiennes, Earl of Lincoln (1750-78).". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年8月7日閲覧。
- ^ Sassoon, Adrian (1991). Vincennes and Sèvres Porcelain: Catalogue of the Collections (英語). Malibu, California: J. Paul Getty Museum. p. 90. ISBN 978-0-892-36173-1。
グレートブリテン議会 | ||
---|---|---|
先代 アンドリュー・ウィルキンソン オーブリー・ボークラーク |
庶民院議員(アルドバラ選挙区選出) 1772年 – 1774年 同職:オーブリー・ボークラーク |
次代 アベル・スミス チャールズ・ウィルキンソン |
先代 ジョン・ソーンハーグ トマス・ウィラビー |
庶民院議員(ノッティンガムシャー選挙区選出) 1774年 – 1778年 同職:トマス・ウィラビー 1774年 エドワード・ベンティンク卿 1774年 – 1778年 |
次代 チャールズ・ピアポント エドワード・ベンティンク卿 |