ヘッセン大公国

ドイツ中部に存在した大公国
ヘッセン大公から転送)
ヘッセン大公国
Großherzogtum Hessen
ヘッセン=ダルムシュタット方伯領 1806年 - 1918年 ヘッセン人民州
ヘッセン大公国の国旗 ヘッセン大公国の国章
国旗国章
国の標語: 神・名誉・祖国(Gott, Ehre, Vaterland)
国歌: Hessenlied
ヘッセン大公国の位置
ドイツ帝国内におけるヘッセン大公国
首都 ダルムシュタット
大公
1806年 - 1830年 ルートヴィヒ1世
1892年 - 1918年エルンスト・ルートヴィヒ
大臣主席/首相
1821年 - 1829年カール・グロルマン
1906年 - 1918年クリスチャン・エヴァルト
変遷
建国 1806年8月13日
滅亡1918年11月9日

ヘッセン大公国ドイツ語: Großherzogtum Hessen)は、ドイツ中部にかつて存在した国。神聖ローマ帝国の解体後、1806年ナポレオンがかつてのヘッセン=ダルムシュタット方伯大公の位に格上げした結果成立した。この成立の経緯から、この国は時にヘッセン=ダルムシュタットと呼ばれていた。

歴史

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ナポレオンのライン同盟に初代大公ルートヴィヒ1世が参加したことから、1815年のウィーン会議で領土の多くを割譲せざるを得なかった。ヴェストファーレン公国の領土は、1803年に帝国代表者会議主要決議からヘッセン=ダルムシュタットが獲得したもので、のちプロイセン王国へ割譲された。しかし、マインツにあった封建時代の重要な要塞を含む、ライン川左岸の数カ所の領土を受け取っている。

1816年、大公国は正式な国名を「ヘッセンおよびバイ・ライン大公国(ドイツ語: Großherzogtum Hessen und bei Rhein)」と変更した。

1834年、ギーセン大学の医学生であったゲオルク・ビューヒナーと小学校教員であったフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヴァイディヒは、農民や手工業者に蜂起を促し大公国の体制転覆を図る宣伝パンフレット『ヘッセン急使』を制作した。革命の企ては失敗に終わったが、『ヘッセン急使』はよく知られた政治文書となった。

1867年、公国北部が北ドイツ連邦の一部となった。1871年、大公国はドイツ帝国の構成国家となった。最後の大公エルンスト・ルートヴィヒイギリス女王ヴィクトリアの孫で、ロシア皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの実兄)は第一次世界大戦後に退位させられた。大公国は共和制のヘッセン人民州となった。

国土の大半はフランクフルト・アム・マイン、ヴァルデック地域、プロイセン領ヘッセン=ナッサウ州英語版と連合して新たにヘッセン州を形成し、第二次世界大戦敗戦まで続いた。ヘッセン=ナッサウからモンタバウル行政区を除いた部分、そしてライン川左岸のヘッセン=ダルムシュタット部分がラインラント=プファルツ州となった。飛び地のバート・ヴィンプフェンはバーデン=ヴュルテンベルク州の一部となった。

第2代大公ルートヴィヒ2世の四男アレクサンダーとその妻ユリア・ハウケの子供たちはヘッセン家から分かれ、両親の隠遁地バッテンベルクにちなみバッテンベルク家となった。バッテンベルク家はヨーロッパ各国の王家と結婚により結ばれている。イギリスへ移ったアレクサンダーの長男ルイスは家名をバッテンバーグ家、そしてマウントバッテン家と改めた。ルイスの娘アリスの長男はエリザベス2世王配フィリップである。イギリスでは1960年に女王とフィリップの間の子孫はマウントバッテン=ウィンザー家(Mountbatten-Windsor)とする勅令が出ている。

ヘッセンの地域区分

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3分割されたヘッセン大公国: 上ヘッセン、シュタルケンブルク、ライン・ヘッセン

ヘッセン大公国は3つに分割された。

  • シュタルケンブルク(en:Starkenburg)- 首都:ダルムシュタット。ライン川右岸、マイン川南部
  • ライン・ヘッセン(en:Rhenish Hesse)- 首都:マインツ。ライン川左岸、ウィーン会議により獲得した領土
  • 上ヘッセン - 首都:ギーセン、マインツ川北部、1866年にプロイセンに併合されたフランクフルト・アム・マインによってシュタルケンブルクから離されている。

君主一覧

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  1. ルートヴィヒ1世(在位:1806年 - 1830年)
  2. ルートヴィヒ2世(在位:1830年 - 1848年)
  3. ルートヴィヒ3世(在位:1848年 - 1877年)
  4. ルートヴィヒ4世(在位:1877年 - 1892年)
  5. エルンスト・ルートヴィヒ(在位:1892年 - 1918年)

外部リンク

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