ブランデンブルク領黄金海岸

かつてアフリカに存在したブランデンブルクとプロイセンの植民地

座標: 北緯4度45分13秒 西経2度04分01秒 / 北緯4.75361度 西経2.06694度 / 4.75361; -2.06694

ブランデンブルク領黄金海岸
Groß Friedrichsburg (ドイツ語)
1682年 - 1721年 オランダ領黄金海岸
ブランデンブルク領黄金海岸の国旗
(国旗)
ブランデンブルク領黄金海岸の位置
現在のガーナ、当時の黄金海岸でのグロス・フリードリヒスブルクの所在。左下の黒点と旗。
公用語 ドイツ語アカン語
宗教 プロテスタントカトリックアカン人の宗教
首都 グロス・フリードリヒスブルク
ブランデンブルク選帝侯
のちにプロイセン王
1682年 - 1688年 ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム
1688年 - 1713年プロイセン王フリードリヒ1世
1713年 - 1721年プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
変遷
ブランデンブルクアフリカ会社設立 1682年5月
プロイセン領黄金海岸になる1701年1月15日
オランダへ売却1721年
現在ガーナの旗 ガーナ

ブランデンブルク領黄金海岸(ブランデンブルクりょうおうごんかいがん)、のちプロイセン領黄金海岸(プロイセンりょうおうごんかいがん)は、黄金海岸の一部に存在した植民地である。ブランデンブルクによって設立され、1682年から1720年にかけて存在したが最後はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が7200ダカットオランダに売却した[1]

グロス・フリードリヒスブルクの内部。1884年2月の情景

ブランデンブルク領

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ブランデンブルク(のちのプロイセンの中核)選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの出した勅許によって1682年3月17日に設立されたブランデンブルクアフリカ会社: Brandenburgisch-Afrikanische Compagnie (BAC))によって、西アフリカの黄金海岸、現在のガーナスリーポインツ岬の周辺のギニア湾岸地域に、2つの小規模な植民地が設立された。

  • グロス・フリードリヒスブルク(1683年-1717年):植民地の首府。ホーランディアとも呼ばれる[2]。現在のポケス(プリンス・タウン)。
  • ドロテア砦(1684年-1687年4月、1698年-1711年、1712年-1717年4月):アッカダとも呼ばれる。現アクィーダ。1687年-1698年はオランダが占領していた[3]

総督

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  • 1682年-1683年5月:Philipp Pietersen Blonck
  • 1683年-1684年:Nathaniel Dillinger
  • 1684年-1686年:Karl Konstantin von Schnitter
  • 1686年-1691年:Johann Niemann
  • 1691年-1693年:Johann Tenhoof
  • 1693年-1695年:Jakob Tenhoof
  • 1695年-1697年:Gijsbrecht van Hoogveldt
  • 1697年-1699年:Jan van Laar
  • 1699年-1701年:Jan de Visser

プロイセン領

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1701年にブランデンブルク選帝侯、フリードリヒ3世プロイセンの王(フリードリヒ1世)として戴冠して、プロイセン王国が成立した。

しかし、植民地経営としては不振が続いた。1713年に即位したフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は「兵隊王」と綽名されるほどの熱心に陸軍戦備に取り組み、アフリカの植民地への関心は低かった。

1711年から1712年4月まで、オランダは再びドロテア砦を占領した。 1717年に植民地はプロイセンによって物理的に放棄されたため、1717年から1724年まで現地人の有力者のヨハネス・コンラート英語版(オランダ語読みでヤン・コニー)は手勢[4]でもってグロス・フリードリヒスブルクの要塞を支配していた。

1721年、植民地への権利はオランダに売却され、オランダ領黄金海岸の一部としてグロス・フリードリヒスブルクはホーランディアと改名された。ヨハネス・コンラートはオランダに抵抗して要塞を保持し続けたが、1724年に撤収した。

総督

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  • 1701年-1704年:Adriaan Grobbe
  • 1704年-1706年:Johann Münz
  • 1706年-1709年:Heinrich Lamy
  • 1709年-1710年:Frans de Lange
  • 1710年-1716年:Nicholas Dubois
  • 1716年-1717年:Anton Günther van der Menden
  • 1717年-1724年:ヤン・コニー(ヨハネス・コンラート)

関連項目

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脚注 

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  1. ^ William Harbutt Dawson (1891). Bismarck and State Socialism: An Exposition of the Social and Economic Legislation of Germany Since 1870. S. Sonnenschein & Company. https://books.google.co.jp/books?id=tSPH3Hu6WqEC&hl=ja&pg=PA146#v=onepage&q=7200%20ducats&f=false 2020年9月29日閲覧. "but Brandenburg's now Prussia's colonial schemes received no encouragement from King Frederick William I, who preferring the material equivalent of his transoceanic territories to the barren dignity of colonial empire placed his colonies in Guinea in the market at the sum of 150,000 thalers. No purchaser could be found at the price and ultimately in 1720 a Dutch trading company became the possessor for 7,200 ducats and twelve Moors of whom six bore gold chains about their necks. In 1871 Great Britain acquired Prussia's old Gold Coast colony by purchase and it is now an appendage of Cape Coast Castle." 
  2. ^ Accada and Hollandia: p.252. New Cambridge Modern History Atlas, H.C. Darby and Harold Fullard
  3. ^ Briggs, P. (2014). Ghana. Bradt Travel Guide Series. Bradt Travel Guides. p. 257. ISBN 978-1-84162-478-5. https://books.google.com/books?id=ShVTAgAAQBAJ&pg=PA257 16 May 2019閲覧。 
  4. ^ 奴隷貿易の仲介者として活躍してた大商人なので、もともと武力を有していた。

参照 

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  • World Statesmen.org: Ghana
  • Accada and Hollandia: pg. 252. New Cambridge Modern History Atlas, H.C. Darby and Harold Fullard

外部リンク

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