ブヤン・テムルモンゴル語: Buyan Temür、? - 1377年)は、チャガタイの庶長子のモチ・イェベの子孫で、モンゴル帝国の皇族。明朝に投降して、安定衛の祖となった。『明実録』では安定王卜煙帖木児と記される。

概要

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元朝にはチャガタイの庶長子のモチ・イェベの孫であるバイダカンの子孫(トガン、ドルジバル)が安定王を称しており、ブヤン・テムルもまたバイダカンに始まる安定王家の一族であったと推測されている[1]

洪武7年(1374年)、サリク・ウイグル(現代のユグル族)の地に住むブヤン・テムルは府尉の麻答児・千戸の剌爾嘉を明朝に派遣し、鎧甲・刀剣を献上した。洪武帝はブヤン・テムル配下の4人の酋長に銅印を支給し、それぞれを阿端・阿真・曲先(苦先)・帖里と呼称した[2]

洪武8年(1375年)、ブヤン・テムルは王傅のブヤン・ブカ(不顔不花)を派遣して大元ウルスカアンより授けられた金銀字牌を明朝に献上し、同時に明朝の官職を授けるよう請願した[3]。これを受けて洪武帝は安定衛・阿端衛を設置し、ブヤン・テムル配下の酋長を指揮同知および指揮僉事に任じた[4]。洪武9年(1376年)には広東行省参政の鄭九成が派遣され、下賜品がブヤン・テムルらに与えられた[5]

洪武10年(1377年)、ブヤン・テムルの要請によって曲先衛の指揮同知に任ぜられた沙剌がブヤン・テムルを殺したため、ブヤン・テムルの息子の板咱失里は沙剌を殺して父の讐を取った。しかしその板咱失里もまた沙剌の部将に殺されてしまい、これ以後安定衛は内乱で衰退していった[6]

バイダカン安定王家

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  1. バイダカン(Baidaqan、拝答寒/Bāīdaghānبایدغان)
  2. 安定王トガンToγan、安定王脱歓/Ṭūghānطوغان)
  3. 安定王ドルジバル(Dorǰibar、安定王朶児只班)
  4. 安定王ブヤン・テムル(Buyan Temür、安定王卜煙帖木児)

脚注

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  1. ^ 杉山2004,305頁
  2. ^ 『明太祖実録』洪武七年六月壬戌「西域撒里畏兀児安定王卜煙帖木児遣其府尉麻答児・千戸剌爾嘉、来朝貢鎧甲刀剣等物。撒里畏兀児者韃靼別部也。其地広袤千里去甘粛一千五百里、東抵罕東、西距天可里、北邇瓜沙州、南界吐蕃、居無城郭、以氊帳為廬舎、産多駝馬牛羊。至是、来朝貢、詔遣使賜卜煙帖木児織錦・文綺・四匹麻答児等羅衣二。仍命召其酋長立為四部、給銅印曰阿端、曰阿真、曰苦先、曰帖里」
  3. ^ 『明太祖実録』洪武八年正月癸亥「撒里畏兀児安定王卜煙帖木児遣王傅不顔不花等、来朝献故元所授金銀字牌。詔賜不顔不花等文綺衣服、有差」
  4. ^ 『明太祖実録』洪武八年正月丙戌「置安定・阿端二衛指揮使司、従撒里畏兀児卜煙帖木児之請也。以沙剌為指揮同知、亦班蔵卜・卜理不花・護出完者帖木児為指揮僉事」
  5. ^ 『明太祖実録』洪武九年十月丁巳「遣前広東行省参政鄭九成・同河南衛百戸羅福、齎金織文綺衣服往陝西安定・斡端衛並撒里畏吾児等地、賜賚元宗室寧王卜煙帖木児等官五十九人」
  6. ^ 『明太祖実録』洪武十年四月乙亥「曲先衛指揮沙剌殺故元安定王卜煙帖木児、其子板咱失里殺沙剌、以報父讎。既而板咱失里復為沙剌部将所殺」

参考文献

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  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年