フリオ・ロメロ・デ・トーレス
フリオ・ロメロ・デ・トーレス(Julio Romero de Torres、1874年11月9日 - 1930年5月10日)は、スペインの画家である[1]。
フリオ・ロメロ・デ・トーレス Julio Romero de Torres | |
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自画像 (c.1905) | |
生誕 |
1874年11月9日 スペイン、コルドバ |
死没 |
1930年5月10日 (55歳没) コルドバ |
略歴
編集スペイン、アンダルシアのコルドバで生まれた。父親のラファエル・ロメロ・バロス(Rafael Romero Barros: 1832-1895)は、画家でコルドバの美術館の館長を務めた人物である。兄のラファエル・ロメロ・デ・トーレス(Rafael Romero de Torres:1865-1898)とエンリケ・ロメロ・デ・トーレス(Enrique Romero de Torres: 1872-1956)も画家になった。
父親から絵を学び、1889年ころには絵を発表するようになり、コルドバの新聞「Diario de Córdoba」に挿絵を提供した。
1895年にスペインの全国美術展に出展した作品が選外佳作を受賞した。1897年にローマのスペイン美術アカデミーに留学する資格が得られるコンクールに出展するが、優勝できなかった。翌年、兄のラファエルが33歳の若さで亡くなった。1899年の全国美術展で、3等のメダルを受賞した。この頃から、美術学校で教え始めた。 結婚し、ヨーロッパ各地を旅した。
1906年の全国美術展で売春宿の中を描いた作品を提出し、審査員によって道徳的理由で展示を拒絶された。その後、ダリオ・デ・レゴヨス(1857-1913)やサンティアゴ・ルシニョール(1861-1931年)、ホセ・グティエレス・ソラーナ(1886-1945)らの新しいスタイルの画家とマドリードの「Círculo de Bellas Artes」という美術グループの展覧会に参加した。
1915年からマドリードに住み、1916年にマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーの教授に就任した。
1928年までに健康状態が悪化し、医師に休養を勧められ、1930年に故郷に戻るが、仕事は続けた。55歳でコルドバで亡くなった。
作品
編集-
サエタ
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オレンジとレモン(1927)
フリオ・ロメロ・デ・トーレス美術館 -
火の番をする女 (1930)
フリオ・ロメロ・デ・トーレス美術館 -
ラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス(フラメンコ歌手)(1917/1918)
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占い師 (c.1522)
Carmen Thyssen Museum -
アンダルシアの聖母 (1907)
フリオ・ロメロ・デ・トーレス美術館 -
"Venus of Poetry" (1913)
ビルバオ美術館 -
罪(1913年)
脚注
編集参考文献
編集- Ramón Pérez de Ayala, "Julio Romero de Torres, pintor" and "Romero de Torres en la Argentina", in: Ramón Pérez de Ayala y las artes plásticas, exhibition catalog, Granada, Fundación Rodríguez-Acosta, 1991 ISBN 978-84-604-0750-8
- Francisco Calvo Serraller, "La hora de iluminar lo negro: tientos sobre Julio Romero de Torres", in: Julio Romero de Torres (1874-1930), exhibition catalog, Fundación Cultural Mapfre Vida, 1993.
- Francisco Zueras Torrent, Julio Romero de Torres, su vida y su mundo, Córdoba, Ayuntamiento, Delegación de Cultura, 1974.