フリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ
フリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ(スペイン語: Julio César Turbay Ayala、1916年6月18日 - 2005年9月13日)は、コロンビア・ボゴタ出身の外交官・政治家。1978年から1982年までコロンビア大統領を務めた(第25代)。在アメリカ合衆国コロンビア大使や外務大臣を歴任した。
フリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ Julio César Turbay Ayala | |
任期 | 1978年8月7日 – 1982年8月7日 |
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出生 | 1916年6月18日 ボゴタ |
死去 | 2005年9月13日(89歳没) ボゴタ |
政党 | コロンビア自由党 |
配偶者 |
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経歴
編集父親のアントニオ・アミンはレバノンからコロンビアへの移民であり[1]、母親のロサウラ・アヤラはボゴタ近郊のクンディナマルカ県出身の農民である。父親は商人として財産を築いたが、1899年から1902年まで続いた千日戦争ですべてを失った[2]。トゥルバイ自身はボゴタの中等学校で教育を受けたが、大学で学位を取得したことはない。なお、大臣となった後の1957年にはカウカ大学から法学の名誉学位を授与されている[3]。
1938年にはボゴタの南西にあるエンガティベ村の村会議員となった[3]。1943年にはクンディナマルカ県選挙区選出の下院議員となった[3]。1946年と1949年には下院議長を務めた[3]。1957年には鉱業・エネルギー大臣となり、1958年には外務大臣となった[3]。1962年には上院議員となり、1967年から1969年には国連大使を務めた[3]。1975年には在アメリカ合衆国コロンビア大使となった[3]。
1978年、コロンビア自由党から大統領選挙に出馬。現職のアルフォンソ・ロペス・ミケルセン大統領を破り、同年8月7日にコロンビア大統領に就任した[4]。高まる反政府活動に対して、戒厳令を布告して弾圧した。多くの活動家が秘密警察による拉致されたり、拷問を受けて失踪したとされる。これらの人権侵害によって、トゥルバイ政権は多くの批判を浴びた[3]。左派の小説家であるガブリエル・ガルシア=マルケスは、1981年にトゥルバイ政権に対して批判的な『予告された殺人の記録』を著している[3]。1982年8月7日に大統領を退任し、ベリサリオ・ベタンクール・クアルタスに引き継いだ。
2002年の大統領選挙では右派のアルバロ・ウリベを支持した。当初は大統領の二選に反対していたが、最終的には2006年大統領選挙でもウリベの支援に回った。2005年9月13日、89歳で死去した[3]。
家族
編集1948年7月1日に姪のニディア・キンテーロ・トゥルバイと結婚した。トゥルバイは32歳だったが、ニディアはまだ15歳だった。ふたりはフリオ・セサル・トゥルバイ・キンテーロ、ディアナ・トゥルバイ・キンテーロ、クラウディア・トゥルバイ・キンテーロ、マリア・ビクトリア・トゥルバイ・キンテーロの一男三女を儲けた。フリオ・セサルは政治家となり、ディアナはジャーナリストとなり、クラウディアはジャーナリスト・外交官となった。1991年1月、ディアナは薬物乱用者によって誘拐され、警察の救助活動が失敗したことで殺害された[3]。
脚注
編集- ^ “Julio César Turbay Ayala, ex presidente de Colombia”. エル・ムンド (2005年9月15日). 2017年11月22日閲覧。
- ^ Arismendi Posada, Ignacio; Gobernantes Colombianos; trans. Colombian Presidents; Interprint Editors Ltd., Italgraf, Segunda Edición; Page 249; Bogotá, Colombia; 1983
- ^ a b c d e f g h i j k “Julio César Turbay”. テレグラフ (2005年9月14日). 2017年11月22日閲覧。
- ^ コロンビアの大統領決る『朝日新聞』1978年(昭和53年)7月18日朝刊、13版、7面
外部リンク
編集公職 | ||
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先代 アルフォンソ・ロペス・ミケルセン |
コロンビアの大統領 1978–1982 |
次代 ベリサリオ・ベタンクール・クアルタス |