フランシスコ・パチェーコ

スペインの画家、美術研究家 (1564-1644)

フランシスコ・パチェーコ・デル・リオ(Francisco Pacheco del Río, 1564年 - 1644年)は、スペインの画家、美術研究家。当時は異端審問所付美術監督官でもあった[1]。『絵画芸術論』の著者であり、これはスペインの美術研究における重要な史料となっている。ディエゴ・ベラスケスの師であり義父でもある。日本語ではパチェコと記載されることもある。エンガスとブラウンはパチェーコについて、17世紀で最も美術に関して重要な作家であるとしている[2]

フランシスコ・パチェーコ
Francisco Pacheco
生誕 スペイン帝国サンルーカル・デ・バラメーダ
死没 スペイン帝国セビーリャ
国籍 スペインの旗 スペイン
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生涯

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ベラスケスによる娘フアナの肖像、もしくは巫女といわれる[3]

幼少期から孤児となったパチェーコは、後に叔父の養子となった[2]。セビリア大聖堂の聖堂参事会会員で優れた学者であった叔父は、パチェーコを自分の知識人たちの交友関係に紹介し、これがパチェーコの芸術志向の養成に繋がった[2]1610年12月1日、ベラスケスがパチェーコの工房に入門するも、パチェーコは旅行中で不在であったと言われている[4]。翌年9月22日、ベラスケスの父フアン・ロドリーゲス・デ・シルバとパチェーコとの間で徒弟契約が交わされる[4]1617年3月14日フアン・デ・ウセーダと共にベラスケスに「聖像画家」の資格試験を課し、ベラスケスはこれに合格した[4]。翌年4月23日娘であるフアナがベラスケスと結婚した[4]1623年、オリバーレス伯より旅費50ドゥカードを得たベラスケスは、パチェーコと弟子であるパレーハと共にマドリードを旅行する。1625年、ベラスケスの描いた『フェリペ四世の騎馬像』[注釈 1]がマヨール通りで公開された際に、ソネットを書いて賛美した[4]1638年に『絵画論:その古代性と偉大』を脱稿した[5]

作品

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パチェーコによる『最後の審判』

主に冷たいマニエリスム風の絵画作品を描く[6]。彼の名前はその作品よりも著作により知られている[6]

絵画

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著作

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  • 肖像画集Libro de descripción de verdaderos retratos de ilustres y memorables varones
ペンによる素描の肖像画56点が含まれている[6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 作品は紛失しており、現存していない。

出典

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  1. ^ 山尾彩香「《無原罪の御宿り》にみる父権的支配者としてのマリア」『西南学院大学博物館 研究紀要』第4巻、西南学院大学、福岡、2016年3月、72頁、ISSN 2187-62662016年10月2日閲覧 
  2. ^ a b c Enggass & Brown 1970, p. 161
  3. ^ Museo del Prado et al. 2002, p. 148.
  4. ^ a b c d e 井上靖; 吉田秀和; 大高保二郎; 高階秀爾『ベラスケス』 15巻、中央公論社〈カンヴァス世界の大画家〉、1983年5月、96頁。ISBN 412401905XNCID BN02996277 
  5. ^ Museo del Prado et al. 2002, p. 241.
  6. ^ a b c d 末吉雄二『世界美術大事典』 3(しーてえ)、小学館、1989年6月、222頁。ISBN 4096993131NCID BN0281720X 

参考文献

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外部リンク

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