フェリクス・カジミェシュ・ポトツキ
フェリクス・カジミェシュ・シチェンスニィ・ポトツキ(ポーランド語: Feliks Kazimierz Szczęsny Potocki, 1630年 - 1702年5月15日)は、ポーランド・リトアニア共和国のマグナート、ヘトマン。
フェリクス・カジミェシュ・ポトツキ Feliks Kazimierz Potocki | |
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出生 |
1630年 |
死去 |
1702年5月15日 |
配偶者 | クリスティーナ・ルボミルスカ |
子女 |
ミコワイ ユゼフ スタニスワフ イェジ |
家名 | ポトツキ家 |
父親 | スタニスワフ・レヴェラ・ポトツキ |
母親 | ゾフィア・カリノフスカ |
生涯
編集王冠領大ヘトマンを務めた大貴族スタニスワフ・レヴェラ・ポトツキの次男で、兄アンジェイもヘトマンであった。1661年、彼は王冠領野戦ヘトマンだったイェジ・セバスティアン・ルボミルスキ公の娘クリスティーナと結婚して5人の子供をもうけた。義父は1665年に国王ヤン2世カジミェシュに対して反乱を起こしている。クリスティーナとの死別後は長く独身を通したが、晩年になって再婚した。
フェリクスは1663年より王冠領副大膳官、1669年よりシェラツ県知事、1682年よりキエフ県知事、1683年よりクラクフ県知事、1692年より王冠領野戦ヘトマン、最晩年の1702年にクラクフ城代および王冠領大ヘトマンをそれぞれ務めた。ベウツ、クラスニスタフ、フルビェシュフ、ロプチツェ、ソカル、トルマチュ、ニスコの代官でもあった。
フェリクスは1655年から1664年までの間、共和国に対する反乱者および侵入者であるウクライナ・コサック、スウェーデン、トランシルヴァニアおよびロシア・ツァーリ国との戦いに従事した。1669年5月2日から6月19日まで開催された国王選出に際しての議会では、彼は議長としてミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキのポーランド王選出に貢献した。
フェリクスは1673年のホチムへの遠征で勇名を馳せた。彼はヤン・ソビェスキの国王選出を支持し、大トルコ戦争中の1683年にはウィーン遠征を準備したほか、クリミア・タタール人やトルコ人との長きにわたる戦いを続けた。1698年、フェリクス・ポトツキに率いられたポーランド軍はピドハイツィの戦いで、ポーランドに進撃してきたタタールの軍勢を完膚なきまでに粉砕した。