フェデリーコ2世 (シチリア王)
フェデリーコ2世(Federico II, 1272年12月13日 - 1337年6月25日)は、シチリア王(在位:1296年 - 1337年)。アラゴン王兼シチリア王ペドロ3世(ピエトロ1世)と、シチリア王マンフレーディの娘コスタンツァの間に三男として生まれた。
フェデリーコ2世 Federico II | |
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シチリア国王 | |
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在位 | 1296年 - 1337年 |
出生 |
1272年12月13日 アラゴン連合王国、カタルーニャ君主国、バルセロナ伯領、バルセロナ |
死去 |
1337年6月25日(64歳没) シチリア王国、パテルノー |
埋葬 | シチリア王国、カターニア大聖堂 |
配偶者 | エレオノーラ・ダンジョ |
子女 | 一覧参照 |
家名 | バルセロナ家 |
王朝 | アラゴン朝 |
父親 | ペドロ3世 |
母親 | コンスタンサ・デ・シシリア |
生涯
編集ペドロ3世は1285年に死去し、アラゴンを長男のアルフォンソ3世に、シチリアを次男のジャコモ1世に残す。アルフォンソ3世は1291年に死去し、ジャコモ1世がアラゴン王ハイメ2世になり、フェデリーコがシチリアの摂政となった。1296年にハイメ2世がシチリア王位を放棄、フェデリーコがシチリア王フェデリーコ2世に即位した。
シチリアの所有権を巡るアンジュー家とバルセロナ家の争い(シチリア晩祷戦争)は続いており、バルセロナ家はイタリアでは成功していたものの、内紛とフランスの攻撃によってスペインにおけるハイメ2世の地位は危うくなっていた。ナポリ王カルロ1世による和平交渉が行なわれていたが、続けざまに起きた2人の教皇の死によって中断していた。さらにカルロ1世の息子カルロ2世の画策で、教皇からアラゴン本国に対しシチリア攻撃の命令が下され、アラゴンからフェデリーコ2世のために派遣されていた高官や軍隊がそのままフェデリーコ討伐軍として攻撃を始めるという絶体絶命の危機に曝されるが、フェデリーコの奮闘によって辛うじて退けることに成功する。
その後、カルロ2世との間で和平が成立し、1302年にカルロ2世の娘エレオノーラ・ダンジョと結婚した。1321年に長男のピエトロ2世を共同統治者に任じた後、国家整備を推し進め、周辺諸国からの干渉を防ぐことに成功した。
家族
編集エレオノーラとフェデリーコ2世の間には5男4女が生まれた。
- ピエトロ2世(1304年 - 1342年) - シチリア王
- ルッジェーロ(1305年)
- マンフレーディ(1306年 - 1317年) - アテネ公
- コスタンツァ(1304/06年 - 1344年以降) - 1.キプロス王アンリ2世と結婚、2.アルメニア王レヴォン5世と結婚、3.ジャン・ド・リュジニャン(キプロス王ピエール1世弟)と結婚
- イザベッラ(1310年 - 1349年) - バイエルン公シュテファン2世と結婚。ヴィッテルスバッハ家とホーエンツォレルン家にホーエンシュタウフェン家の血を伝えている。
- グリエルモ(1312年 - 1338年) - ターラント公
- ジョヴァンニ(1317年 - 1348年) - ランダッツォ公
- カタリーナ(1320年 - 1342年) - メッシーナのサンタ・キアラ女子修道院長
- マルゲリータ(1331年 - 1360年) - ライン宮中伯ルドルフ2世と結婚
フェデリーコ1世
編集フェデリーコ2世の曾祖父である神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、シチリア王としてはフェデリーコ1世となるが、イタリア語名による神聖ローマ皇帝の呼称「フェデリーコ(=フリードリヒ)2世」がそのまま誤用されて「シチリア王フェデリーコ2世」と呼ばれることが多い。そのため本来のシチリア王フェデリーコ2世のことを「フェデリーコ3世」と誤記されることがある(フリードリヒ2世の後継者として自ら「フェデリーコ3世」を称したともされる[1])。
脚注
編集- ^ 北原、p. 184
参考文献
編集- 北原敦 編 『新版世界各国史15 イタリア史』 山川出版社、2008年
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