フィリップ・ド・ブルゴーニュ (1323-1346)
フィリップ・ド・ブルゴーニュ(フランス語:Philippe de Bourgogne, 1323年11月10日 - 1346年8月10日)は、フランス王家傍系のブルゴーニュ公ウード4世とその妻のブルゴーニュ女伯・アルトワ女伯ジャンヌ3世の間の唯一成育した息子[1][2]。結婚によりオーヴェルニュ伯およびブローニュ伯となった[3]。フィリップ・ムッシュ(Philippe Monsieur)の呼び名で知られる。
フィリップ・ド・ブルゴーニュ Philippe de Bourgogne | |
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オーヴェルニュ伯 ブローニュ伯 | |
フィリップの紋章 | |
在位 | 1338年 - 1346年 |
出生 |
1323年11月10日 |
死去 |
1346年8月10日(22歳没) エギュイヨン |
配偶者 | オーヴェルニュ女伯・ブローニュ女伯ジャンヌ1世 |
子女 |
ジャンヌ マルグリット フィリップ1世 |
家名 | ブルゴーニュ家 |
父親 | ブルゴーニュ公ウード4世 |
母親 | ブルゴーニュ女伯・アルトワ女伯ジャンヌ3世 |
生涯
編集1338年9月26日にオーヴェルニュ女伯・ブローニュ女伯ジャンヌ1世と結婚し、妻方の2つの伯爵位を帯びた。夫妻の間には3人の子女が生まれた。
- ジャンヌ(1344年 - 1360年9月11日) - 1347年から1355年までサヴォイア伯アメデーオ6世と婚約、サヴォイア宮廷で育てられた。10歳で婚約解消となり、ポワシーの修道院に入りその死まで修道院で過ごした[4]。
- マルグリット(1345年生、夭折)
- フィリップ1世(1346年 - 1361年) - ブルゴーニュ公、ブルゴーニュ伯、アルトワ伯、オーヴェルニュ伯、ブローニュ伯。嗣子なく死去[5]。フィリップ1世の死後、ブルゴーニュ公領はフランス王領となり[5]、後にフランス王ジャン2世の末息子フィリップ2世に与えられた[6]。
百年戦争が始まって間もない1340年、アルトワ伯領の相続請求者でイングランド側についたボーモン・ル・ロジェ伯ロベール3世に襲撃されたサントメールの町を、父とともに防衛した。1346年、イングランド軍が占領した都市エギュイヨンの包囲に、フランス王ジャン2世の指揮するフランス軍の一員として参加した。8月10日に起きた敵軍との小規模な戦闘中、溝を飛び越えようとして乗っていた馬がつまずき、地面に投げ落とされたところを馬に踏みつけられて死んだ[3]。
脚注
編集- ^ Cox 1967, p. 60.
- ^ Le Bel 2011, p. 312.
- ^ a b Le Bel 2011, p. 209.
- ^ Cox 1967, p. 60–61,105.
- ^ a b Ormrod 2011, p. 417.
- ^ Vaughan 2005, p. 152.
参考文献
編集- Cox, Eugene L. (1967). The Green Count of Savoy. Princeton, New Jersey: Princeton University Press. LCCN 67--11030
- Le Bel, Jean (2011). The True Chronicles of Jean Le Bel, 1290-1360. Boydell & Brewer
- Ormrod, W. Mark (2011). Edward III. Yale University Press
- Vaughan, Richard (2005). Philip the Bold: The Formation of the Burgundian State. 1. The Boydell Press
外部リンク
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