ピエール2世 (アランソン伯)
ピエール2世(フランス語:Pierre II, 1340年 - 1404年9月20日)は、アランソン伯(在位:1361年 - 1040年)およびペルシュ伯(在位:1377年 - 1404年)。アランソン伯シャルル2世とマリア・デ・ラ・セルダの息子[1]。
ピエール2世 Pierre II | |
---|---|
アランソン伯 | |
ピエール2世の紋章 | |
在位 | 1361年 - 1404年 |
出生 |
1340年 |
死去 |
1404年9月20日 ノルマンディー公領、アルジャンタン |
配偶者 | ボーモン=オー=メーヌ女子爵マリー・ド・シャマイヤール |
子女 | 本文参照 |
家名 | ヴァロワ=アランソン家 |
父親 | アランソン伯シャルル2世 |
母親 | マリア・デ・ラ・セルダ |
生涯
編集ピエールは1350年に騎士に叙され、ポワティエの戦いの後にフランス王ジャン2世と交換された人質の一人となり、1370年にようやくフランスに帰国した[2]。ピエールは弟ロベールとともにイングランド軍と戦うためアキテーヌに遠征し、リモージュを占領したが、1371年にユソンで敗北を喫した。
1371年10月10日にボーモン=オー=メーヌ女子爵マリー・ド・シャマイヤールと結婚し[3]、以下の子女をもうけた。
- マリー(1373年3月29日 - 1417年) - アルクール伯およびオマール伯ジャン7世と結婚[4]
- ピエール(1374年 - 1375年)
- ジャン(1375年 - 1376年)
- マリー(1377年)
- ジャンヌ(1378年 - 1403年 アルジャンタン)
- カトリーヌ(1380年 - 1462年) - 1411年にアランソンでモルタン伯ピエール・デヴルーと結婚、1413年10月1日に上バイエルン=インゴルシュタット公ルートヴィヒ7世と再婚。
- マルグリット(1383年 - 1400年以降) - アルジャンタンの修道女
- ジャン1世(1385年 - 1415年)[1] - アランソン伯、のちアランソン公
その後、ピエールはブルターニュにおいてベルトラン・デュ・ゲクランの麾下で戦い、エンヌボンの手前で負傷した。
ピエールには庶子が1人いた。
- ピエール(1422年1月以降没) - ”アランソンの私生児”
脚注
編集- ^ a b Autrand 1994, p. 859.
- ^ Cosneau 1889, p. 48.
- ^ Potter 1995, p. 375.
- ^ Hirschbiegel 2014, p. 679.
参考文献
編集- Autrand, Francoise (1994) (French). Charles V: Le Sage. Fayard
- Cosneau, Eugène (1889) (French). Les grands traités de la guerre de cent ans. Alphonse Picard
- Hirschbiegel, Jan (2014) (German). Étrennes: Untersuchungen zum höfischen Geschenkverkehr im spätmittelalterlichen Frankreich zur Zeit König Karls VI. (1380–1422). De Gruyter
- Potter, David (1995). Keen, Maurice. ed. A History of France, 1460–1560: The Emergence of a Nation State. Macmillan
|
|
|
|
|
|