ビル・ドロモ
ビル・ドロモ(William "Big Bill" Dromo、1937年6月28日 - 2012年12月28日)は、カナダ・マニトバ州ウィニペグ出身のプロレスラー。
ビル・ドロモ | |
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プロフィール | |
リングネーム |
ビッグ・ビル・ドロモ ワイルド・ビル・ドロモ クラッシャー・ビル・ドロモ ビリー・ズビスコ ジ・インベーダー スーパー・グラディエーター スーパー・デストロイヤー |
本名 | ウィリアム・M・ドロモ |
身長 | 191cm |
体重 | 125kg(全盛時) |
誕生日 | 1937年6月28日 |
死亡日 | 2012年12月28日(75歳没) |
出身地 |
カナダ マニトバ州ウィニペグ |
スポーツ歴 | レスリング[1] |
デビュー | 1958年[2] |
引退 | 1982年[2] |
日本ではジャイアント馬場の手記(後述)などによる印象の悪さや来日時のファイトスタイルからヒールのイメージが強いが[3]、アメリカやカナダでは主にベビーフェイスとして活動した[4]。
来歴
編集マニトバ州の大英帝国競技大会で銀メダルを獲得するなどアマチュアレスリングで活躍後[1]、1958年にプロデビュー[2]。ビル・ドロモ(Bill Dromo)をリングネームに、地元のウィニペグをカナダでの興行拠点としていたアメリカ・ミネソタ州のミネアポリス・ボクシング&レスリング・クラブなどのリングでキャリアを積んだ[5]。
1961年、WWWFの前身団体であるニューヨークのキャピトル・レスリング・コーポレーションに進出。プロレス黎明期の大レスラー、スタニスラウス・ズビスコの甥という設定のもと[6]、ビリー・ズビスコ(Billy Zbyszko)と名乗ってベビーフェイスのポジションで活動し、バディ・ロジャースやスカル・マーフィーと対戦[4]。同年9月18日には、初渡米武者修行中だったジャイアント馬場のマディソン・スクエア・ガーデンにおけるデビュー戦の相手を務めた[6]。
日本には1964年9月、日本プロレスに初参戦。10月2日のリキ・スポーツパレスでの興行では、同年4月に凱旋帰国した馬場と引き分けている[7]。1967年7月にはTBSによる放送開始前の国際プロレスに、エース兼ブッカーだったヒロ・マツダのブッキングで来日[8]。8月14日に大阪で行われた日本プロレスとの興行戦争では、大阪府立体育館のメインイベントでロジャー・カービーと組み、マツダ&サム・スティムボートと対戦した[9](日本プロレス側は大阪球場で興行を打ち、ドロモとは因縁のある馬場とジン・キニスキーのインターナショナル・ヘビー級王座戦がメインイベントだった)。
同時期、アメリカでは深南部のNWAジョージア地区を主戦場とし、1960年代後半はターザン・タイラーやブッチャー・バション、ブルート・バーナード、バディ・コルトなどと抗争。アメリカ修行中の坂口征二とも対戦している[10]。1969年には、1月7日にメイコンにてキニスキー、6月18日にコロンバスにてドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座にそれぞれ挑戦した[11]。
1971年1月、日本プロレスに再来日。1月15日に徳山にて大木金太郎からアジア・ヘビー級王座を奪取し、第3代王者となった[12]。1月22日の宮崎県・都城大会ではザ・ストンパーと組んで馬場&アントニオ猪木のBI砲とも引き分けた他[13]、馬場と猪木それぞれとのシングル戦でも引き分けており、この来日ではエース級の足跡を残した。1972年9月には国際プロレスを再び襲撃、9月30日に大阪府立体育館でバディ・オースチンをパートナーにストロング小林&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦し、10月11日には米子にて小林と金網デスマッチで対戦した[14][15]。翌1973年は本拠地のジョージアからフロリダに南下し、8月14日にジョニー・バレンタインを破ってNWA南部ヘビー級王座を獲得している[16]。
1974年4月、黒覆面のジ・インベーダー(The Invader)に扮して新日本プロレスの第1回ワールドリーグ戦に出場[17]。日本人対外国人の形式による予選リーグでは6勝2敗と、外国人選手ではキラー・カール・クラップに次ぐ2位の戦績で総当たり形式の決勝リーグに進出[18]。スタン・スタージャックとジート・モンゴルから勝利を収めたものの、クラップ、猪木、坂口、マサ斎藤らには敗退し、2勝5敗で8選手中6位の結果に終わった[18]。新日本プロレスには1976年9月にも素顔で再来日しており[19]、アンドレ・ザ・ジャイアントともタッグを組んだ[20]。
1970年代後半はテネシー、アラバマ、フロリダを転戦し、フロリダでは1979年にアメリカ修行中の天龍源一郎やプリンス・トンガとも対戦[21]。1980年9月、当時テネシーやアラバマ地区を外国人選手の供給ルートとしていた国際プロレスへ久々に来日[22]。日本プロレス時代の大木金太郎との因縁をアングルに、9月20日に焼津にて当時大木が保持していたインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦したが、大木からの2度目のタイトル奪取は果たせなかった[23]。
その後もアメリカではジョージアを中心に南部のローカル・テリトリーで活動。テネシーのCWAではジミー・ハートをマネージャーに迎え、1981年に覆面レスラーのスーパー・デストロイヤー(The Super Destroyer)に変身、ヒールとしてジェリー・ローラーやビル・ダンディーと対戦している[24]。キャリア末期の1982年9月13日には、メンフィスのミッドサウス・コロシアムにてローラーの南部ヘビー級王座に挑戦した[25]。
引退後も南部地区のリユニオン・イベントなどに姿を見せ[1]、近年では2008年1月6日、ジョージアのインディー団体サザン・エクストリーム・チャンピオンシップ・レスリングにて "Bill Dromo Appreciation Night" と銘打ったイベントが開催された[4]。
エピソード
編集- 1961年に海外修行のため初渡米したジャイアント馬場は、ニューヨーク地区のマディソン・スクエア・ガーデンでの初戦でドロモと対戦した。しかし、当時まだ新人であったためにドロモから露骨な格下扱いを受け、まともに相手をしようとしないドロモに馬場もカッとなり、ただ殴り合うだけの試合になってしまったという[27]。その後もドロモは、馬場の悪口を触れ回ってプロモーターに取り入ろうとしていたともされる[6]。馬場は自著においてドロモを底意地の悪い嫌な男などと記しており[3]、後年ジョージアで再会した際に本人から売り込みを受けても、ドロモを全日本プロレスに呼ぶことはなかった[27]。
- 2011年に発売されたDVD-BOX『国際プロレス クロニクル 下巻』での関係者のコメントでは、マティ鈴木も馬場と同様にドロモの人間性に辟易していたというが、マイティ井上は彼らほど悪印象を持っておらず、個性の強いレスラーとして評している。国際プロレスの韓国遠征に参加した際、現地のキムチを気に入って「ここにずっと住みたい」などと語っていたという。
得意技
編集獲得タイトル
編集- NWAコロンバス・ヘビー級王座:1回[28]
- NWAメイコン・タッグ王座:4回(w / アルベルト・トーレス、ボブ・アームストロング×3)[29]
- NWAインターナショナル・タッグ王座(ジョージア版):1回(w / チーフ・リトル・イーグル)[30]
- NWAサウスイースタン・タッグ王座(ジョージア版):1回(w / ミスター・レスリング2号)[31]
- NWAミッドアメリカ・タッグ王座:3回(w / トージョー・ヤマモト×2、Lorenzo Parente)[33]
- アジア・ヘビー級王座:1回(力道山を初代王者とする同王座史上、唯一の非アジア人王者である)[12]
脚注
編集- ^ a b c “Bill Dromo (aka Bill Zbyszko) Passes Away”. e-Wrestling News. (2012年12月29日). 2016年3月5日閲覧。
- ^ a b c “Bill Dromo”. Cagematch.net. 2013年9月22日閲覧。
- ^ a b 『16文が行く (新装版) 』P158-159(1999年、ダイナミックセラーズ出版、ISBN 488493279X)
- ^ a b c “Bill Dromo”. Online World of Wrestling. 2013年9月22日閲覧。
- ^ “Bill Dromo”. Wrestlingdata.com. 2013年9月22日閲覧。
- ^ a b c 『Gスピリッツ Vol.11』P54-55(2009年、辰巳出版、ISBN 4777806502)
- ^ “JWA 1964 Puroresu Siege of the Autumn & WWA World Championship Series”. Puroresu.com. 2016年3月5日閲覧。
- ^ “IWE 1967 Pioneer Summer Series”. Puroresu.com. 2016年3月5日閲覧。
- ^ “IWE Pioneer Summer Series - Day 13”. Wrestlingdata.com. 2015年1月21日閲覧。
- ^ “Bill Dromo vs. Seiji Sakaguchi”. Wrestlingdata.com. 2014年6月3日閲覧。
- ^ “The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1969”. Wrestling-Titles.com. 2013年9月22日閲覧。
- ^ a b “All Asia Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2013年9月22日閲覧。
- ^ “JWA 1971 New Year Champion Series”. Puroresu.com. 2016年3月5日閲覧。
- ^ “IWE 1972 Dynamite Series”. Puroresu.com. 2016年3月5日閲覧。
- ^ “The IWE matches fought by Bill Dromo in 1972”. Wrestlingdata.com. 2015年1月21日閲覧。
- ^ a b “NWA Southern Heavyweight Title [Florida]”. Wrestling-Titles.com. 2013年9月22日閲覧。
- ^ “NJPW 1974 The 1st World League”. Puroresu.com. 2016年3月5日閲覧。
- ^ a b 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P33(2002年、日本スポーツ出版社)
- ^ “NJPW 1976 Toukon Series”. Puroresu.com. 2016年3月5日閲覧。
- ^ “NJPW Toukon Series 1976 - Tag 16”. Cagematch.net. 2013年9月22日閲覧。
- ^ “The CWF matches fought by Bill Dromo in 1979”. Wrestlingdata.com. 2015年1月21日閲覧。
- ^ “The IWE matches fought by Bill Dromo in 1980”. Wrestlingdata.com. 2015年1月21日閲覧。
- ^ “IWE 1980 Dynamite Series I & II”. Puroresu.com. 2016年3月5日閲覧。
- ^ “The USWA matches fought by Bill Dromo in 1981”. Wrestlingdata.com. 2015年1月21日閲覧。
- ^ “CWA at Mid-South Coliseum in Memphis: Monday, 1982/09/13”. Wrestlingdata.com. 2015年1月21日閲覧。
- ^ “In Memory of William M. "Big Bill" Dromo”. West Cobb Funeral Home. 2013年9月22日閲覧。
- ^ a b “「王道十六文(完全版)」第四章 初渡米 Part2”. ジャイアント馬場記念館. 2013年9月28日閲覧。
- ^ “NWA Columbus Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2015年3月21日閲覧。
- ^ “NWA Macon Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2013年9月22日閲覧。
- ^ “NWA International Tag Team Title [Georgia]”. Wrestling-Titles.com. 2015年3月21日閲覧。
- ^ “NWA Southeastern Tag Team Title [Georgia]”. Wrestling-Titles.com. 2015年3月21日閲覧。
- ^ “NWA Florida Television Title”. Wrestling-Titles.com. 2016年3月5日閲覧。
- ^ “NWA Mid-America Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2013年9月22日閲覧。
- ^ “Stampede Wrestling International Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2013年9月22日閲覧。
外部リンク
編集- Online World of Wrestling
- ビル・ドロモのプロフィール - Cagematch.net, Wrestlingdata.com, Internet Wrestling Database