ビリー・カーター
ビリー・カーター (Billy Carter) として知られる、ウィリアム・アルトン・カーター3世(William Alton Carter 3d、1937年3月29日[1][2] – 1988年9月25日)は、アメリカ合衆国の農家、実業家、醸造家、政治活動家。アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターの弟であり、ビリー・ビールを宣伝し、ジョージア州プレーンズの市長選挙の立候補者でもあった。
ビリー・カーター | |
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ジミー・カーターとビリー・カーター(右)、1979年撮影 | |
生誕 |
William Alton Carter 1937年3月29日 アメリカ合衆国 ジョージア州プレーンズ |
死没 |
1988年9月25日 (51歳没) アメリカ合衆国 ジョージア州プレーンズ |
出身校 | エモリー大学 |
職業 | 農家、実業家、政治活動家 |
配偶者 |
Sybil Spires(結婚 1955年) |
子供 | 6人 |
親 | リリアン・ゴーディ・カーター(母) |
親戚 |
ジミー・カーター(兄) ルース・カーター(姉) |
生い立ち
編集ジョージア州プレーンズで、ピーナッツ農家の父ジェームズ・アール・カーター・シニアと母 リリアンの間に生まれた[3][4]。
後年には奇矯な振る舞いで知られたが、母親によれば、7人きょうだいの中でも「一番賢かった (the smartest)」という[4]。
若くして結婚した上で、海兵隊の軍役に就き、日本やフィリピンで勤務した後、帰郷し、アトランタのエモリー大学に学んだが、成績不良で退学させられた[5]。以降は、人生の大半をプレーンズや近傍で過ごした[2]。
1970年代、その後
編集1972年、ビリー・カーターはプレーンズでガソリンスタンドを買い入れた。1970年代のほとんどの期間、彼はこのスタンドを所有し、経営していた[6]。
1976年には、プレーンズの市長選挙に出馬したが、97票対71票で敗れた[7]。
1970年代、兄のジミー・カーターが大統領であった時期、ビリー・カーターは酒造会社ピーナット・ロリータの公式スポークスパーソンを務めた[8]。
1977年、彼は「ビリー・ビール」というフォールズ・シティ・ブルーイング・カンパニーが売り出した商品の宣伝役となったが、これは同社が、ビール好きの南部のグッド・オールド・ボーイという彼の派手なイメージを利用しようとしてのことであり、そのイメージはもともと兄が大統領選挙に出馬した際にマスメディアが広めたものであった。ビリー・カーターの名は、1970年代のクイズ番組『Match Game』において、ワシントンD.C.の政界を意味するギャグの回答としてしばしば用いられた。彼は、公の場での奇妙な振る舞いで知られ、ある時には報道陣やお偉方が多数居合わせる中で、空港の滑走路上に放尿したこともあった[9]。
リビアとの関係
編集1978年後半から1979年にかけて、ビリー・カーターはジョージア州からの代表団とともにリビアを3回訪問した。 また、1978年にリビアの代表団がアメリカを訪問した際には接待を行い、ユダヤ人グループから抗議を受けた。1979年8月、2回目のリビア訪問時には革命10周年記念式典に出席。さらにリビアを訪問していたパレスチナ解放機構のジブリル議長らとの会談も行う[10]など、アメリカと対立してきた諸国との関係を築いた。
彼は最終的に、リビア政府の外国人エージェントとなり、22万ドルのローンの提供を受けた(エドウィン・P・ウィルソンは、リビアがビリー・カーターに200万ドルを支払ったことを示す電報を見たことがあると主張している[11])。この一件は、何らかの影響力が金で売られたのではないかとの疑惑を生んで上院で公聴会が開かれる事態にまで発展し、マスメディアはこれをウォーターゲート事件になぞらえて「ビリーゲート (Billygate)」と称した[12]。上院の小委員会は、「外国政府の利害を代表する個人の活動についての調査(ビリー・カーター=リビア調査)(To Investigate Activities of Individuals Representing Interests of Foreign Governments (Billy Carter—Libya Investigation))」と称された。1980年8月4日、大統領ジミー・カーターは、「私はビリーがリビアから資金提供を受け、リビアに対して何らかの責務を負っているかもしれないことを、深く憂慮している。一連の事実は、私が大統領である間、私とビリーの関係にも影響することになろう。ビリーは過去において、リビアに対する合衆国の政策なり行動に何らかの影響力も有していないし、今後の将来においても影響力を及ぼすことはない。」と書き記した[13]
死去
編集1987年秋、カーターは膵癌を患い、施術されたものの回復できなかった。翌年、プレーンズにおいて、51歳で死去した。
これは、彼の姉ルース・カーター・ステイプルトンが同じ膵癌のために54歳で死去してから5年後のことであった[14]。同じ年に母も膵癌で亡くなっている。彼らの父ジェームズ・アール・カーター・シニアもまた、58歳で膵癌のために死去していた。もう一人の姉グロリアも1990年に膵癌で死去した。兄ジミーは2024年現在存命中で、膵癌にはなっていないが、2010年に誤認されたことがある。
1999年、カーターの息子ウィリアム・"バディ"・カーター4世 (William "Buddy" Carter IV) が『Billy Carter: A Journey Through the Shadows』と題した父の伝記を出版した (ISBN 1-56352-553-4)。
脚注
編集- ^ “Billy Carter”. Biography.com. 2019年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月17日閲覧。
- ^ a b Hershey Jr., Robert D. (1988年9月26日). “Billy Carter Dies of Cancer at 51. Troubled Brother of a President.”. The New York Times 2020年12月3日閲覧. "Mr. Carter, whose full name was William Alton Carter 3d, was born in Plains on March 29, 1937 and, except for a stint in the Marine Corps, lived there until April 1977, when he moved about 20 miles to Buena Vista to escape the crowds that had begun engulfing his hometown."
- ^ *"James Earl Carter Sr". Find a Grave. 2020年12月3日閲覧。
- ^ a b Hershey Jr., Robert D. (1988年9月26日). “Billy Carter Dies of Cancer at 51. Troubled Brother of a President.”. The New York Times 2020年12月3日閲覧. "Mr. Carter was well-informed, a reader and had a more supple and sophisticated intellect than he usually showed in his public role. His mother, Lillian, said he was the smartest of her seven children."
- ^ “Billy Carter Dies At 51”. The Associated Press (1988年9月25日). 2020年12月3日閲覧。 “Billy chafed under his brother’s reign, and as soon as he was old enough he married his high school sweetheart, Sybil, and joined the Marines. After serving in Japan and the Philippines, Carter moved back to Plains and drove a truck for the family warehouse for two years, then spent two years at Emory University in Atlanta before being kicked out for bad grades and turning in a term paper written by someone else.”
- ^ Billy Carter's Station
- ^ Ayres, Drummond (1976年12月7日). “Billy Carter Loses”. The New York Times. 2019年3月21日閲覧。
- ^ Watson, Robert P. (2012). Life in the White House: A Social History of the First Family and the President's House. Albany, New York: SUNY Press. p. 119. ISBN 978-0791485071 2017年4月2日閲覧。
- ^ "Billy Carter Curbs Tongue", Spokane Daily Chronicle, January 15, 1979
- ^ カーター大統領の弟ビリー氏 PLO主流派首脳と会談 クウェート紙が報道『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月4日朝刊 3版 7面
- ^ Joseph J. Trento, Prelude to Terror: Edwin P. Wilson and the Legacy of America's Private Intelligence Network (Carroll and Graf, 2005), p. 162.
- ^ Sabato, Larry (1998年7月21日). “Billygate – 1980”. The Washington Post 2011年9月28日閲覧。
- ^ Trento, Prelude to Terror, p. 164. :トレントは、リビアがビリー・カーターに関与したのは、イスラエルの情報機関が「大統領と妥協するため (to compromise the president)」として扇動した結果であり、その背景には、それまでイスラエルが「CIA内部で有していた特別待遇 (special status inside the CIA」をカーター大統領が廃止させたことがあったと断じている。 Trento, 160, 157.
- ^ Hershey Jr., Robert D. (1988年9月26日). “Billy Carter Dies of Cancer at 51. Troubled Brother of a President.”. The New York Times 2008年4月29日閲覧. "Billy Carter, the irrepressible gas station proprietor and farmer who vaulted to national celebrity in his brother Jimmy's successful campaign for President in 1976, died of cancer of the pancreas yesterday at his home in Plains, Georgia. He was 51 years old."
関連項目
編集外部リンク
編集- FBI file on Billy Carter
- Inquiry into the matter of Billy Carter and Libya: hearings before the Subcommittee to Investigate the Activities of Individuals Representing the Interests of Foreign Governments of the Committee on the Judiciary, United States Senate, Ninety-sixth Congress, second session, August 4, 6, 19, 20, 21, 22, September 4, 5, 9, 10, 16, 17, and October 2, 1980
- Billy Carter's "Redneck Power Pick-up" model
- “Billy Carter Has Surgery”. The New York Times: p. 34 (section 1). (September 12, 1987)
- "ビリー・カーター". Find a Grave. 2009年2月10日閲覧。
- Blanco, José F. (2010). “Becoming Billy Carter: Clothes Make the Man (and His Many Characters)”. Southern Cultures 16 (2): 6–30. doi:10.1353/scu.0.0108.