ビタス・ゲルレイティス
ヴィータウタス・ケビン・"ビタス"・ゲルレイティス (Vytautas Kevin "Vitas" Gerulaitis、1954年7月26日 - 1994年9月17日[注 1]) は、アメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン区出身の元男子プロテニス選手。
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ビタス・ゲルレイティス | ||||
基本情報 | ||||
フルネーム | Vytautas Kevin Gerulaitis | |||
愛称 | リトアニアのライオン (Lithuanian Lion) | |||
国籍 | アメリカ合衆国 | |||
出身地 | ニューヨーク市ブルックリン区 | |||
生年月日 | 1954年7月26日 | |||
没年月日 | 1994年9月17日(40歳没) | |||
身長 | 182cm | |||
体重 | 70kg | |||
利き手 | 右 | |||
ツアー経歴 | ||||
デビュー年 | 1971年 | |||
引退年 | 1986年 | |||
ツアー通算 | 34勝 | |||
シングルス | 26勝 | |||
ダブルス | 8勝 | |||
生涯通算成績 | 667勝339敗 | |||
シングルス | 503勝216敗 | |||
ダブルス | 164勝123敗 | |||
生涯獲得賞金 | 2,778,748 アメリカ合衆国ドル | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | 優勝 (1977/12) | |||
全仏 | 準優勝 (1980) | |||
全英 | ベスト4 (1977・78) | |||
全米 | 準優勝 (1979) | |||
優勝回数 | 1 (豪1) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | 1回戦 )1983) | |||
全仏 | ベスト4 (1980) | |||
全英 | 優勝 (1975) | |||
全米 | 3回戦 (1972) | |||
優勝回数 | 1 (英1) | |||
キャリア自己最高ランキング | ||||
シングルス | 3位 | |||
ダブルス | 43位 | |||
1970年代後半に活躍し、1977年12月の全豪オープン男子シングルスで優勝した。シングルス自己最高ランキングは3位。ATPツアーでシングルス26勝、ダブルス8勝を挙げた。父親はリトアニアのテニス・チャンピオンであり、ゲルレイティスは“Lithuanian Lion” (リトアニアのライオン) というニックネームで呼ばれた。1歳年下の妹、ルタ・ゲルレイティスもプロテニス選手である。
経歴
編集ゲルレイティスの活躍した時代は、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金期であり、同年代の選手としてビョルン・ボルグやジミー・コナーズなどの強豪選手がいたため、彼の現在の印象はやや薄くなった。しかしボルグと数々の熱戦を繰り広げ、良き友人でもあった。
ゲルレイティスはコロンビア大学を1年で中退し、1971年にプロテニス選手となった。4大大会にデビューした1971年全米オープンでは、1回戦で敗れた相手が日本の坂井利郎選手であった。1975年ウィンブルドン選手権で、ゲルレイティスは同じアメリカのサンディ・マイヤーとペアを組み、4大大会の男子ダブルスで初優勝を果たす。ゲルレイティスのテニス成績が大きく伸び始めたのは、1976年ウィンブルドン選手権ベスト8進出からである。ゲルレイティスは4回戦で大会前年優勝者のアーサー・アッシュを破ったが、続く準々決勝でラウル・ラミレスに敗れた。それからウィンブルドンでは、1977年と1978年の2年連続でベスト4に進んだが、1977年の準決勝でビョルン・ボルグと最終第5セット6-8まで競り合った試合は、今なお選手権史上に残る名勝負の1つとして語り継がれている。
1977年の全豪オープンは、年頭の1月開催と年末の12月開催の2度行われた。ゲルレイティスが優勝したのは12月の年末開催の大会で、決勝の相手はジョン・ロイドであった。先にゲルレイティスが2セットを先取したが、ロイドが第3・第4セットを連取して追いつく。最終第5セットでゲルレイティスはロイドを突き放し、6-3, 7-6, 5-7, 3-6, 6-2のスコアで初優勝を飾った。
その後のゲルレイティスは4大大会で2度の準優勝に終わり、1979年全米オープンの決勝では当時20歳のジョン・マッケンローに5-7, 3-6, 3-6で敗れ、1980年全仏オープンの決勝ではボルグに4-6, 1-6, 2-6で敗れた。ゲルレイティスとボルグの対戦成績は、ボルグの16戦全勝である。ゲルレイティスは1986年3月のブリュッセル・インドアを最後に31歳で現役を引退した。その後1度だけ1989年全仏オープンの男子ダブルスでコナーズと組んで出場した。
ビタス・ゲルレイティスは1994年9月17日、ニューヨーク州ロングアイランドの友人宅に滞在していた時、睡眠中にエアコン装備が故障し、一酸化炭素中毒のため40歳で死去した。
なお、チェンジコートごとにラケットのグリップテープを巻き替えていた事は有名である。
注釈
編集- ^ ニューヨーク市内にある彼の墓石には「9月17日」と刻まれており、デビスカップのプロフィールページにもこの日付で掲載されているが、文献によっては「9月18日」と掲載しているものもあり、若干の混乱が見られる。
参考文献
編集- Bud Collins, “Total Tennis: The Ultimate Tennis Encyclopedia” Sport Classic Books, Toronto (2003 Ed.) ISBN 0-9731443-4-3
- ATPツアー発行「プレーヤーズ・ガイド」1995年版 (英語、ツアーの公式ガイドブック。ゲルレイティスの追悼記事がある)
外部リンク
編集- ビタス・ゲルレイティス - ATPツアーのプロフィール
- ビタス・ゲルレイティス - デビスカップのプロフィール
- ビタス・ゲルレイティス - 国際テニス連盟
- Find-A-Grave (英語。ニューヨーク市内にあるゲルレイティスの墓)