ヒトラーに例える論証
ヒトラーに例える論証(ヒトラーにたとえるろんしょう、ラテン語: Reductio ad Hitlerum)とは、アドルフ・ヒトラーやナチスと同じ見解を持っていることを根拠に、相手の信憑性を貶めようとする論証である[1]。「ナチスカードを用いる(英語: playing the Nazi card)」という言い回しでも知られている[2][3]。例えば、ヒトラーが反タバコ運動をしていたことをもって、嫌煙家はヒトラーやナチスの同類であると示唆するようなものが挙げられる[4]。
この言葉は1953年にレオ・シュトラウスによって造語されたものであり、論理学(あるいは修辞学)の帰謬法(reductio ad absurdum、不条理への紐付け)から名前を借用したものである[5]。悪人と関連付けることを主張の根拠とする。このような比較は相手の気をそらして怒らせる傾向があり、しばしば議論を脱線させるための戦術として用いられる[6]。
誤謬の側面
編集関連付けの誤謬(Association fallacy)の一種である[6][7]。この論証は、ある政策や事柄がアドルフ・ヒトラーや第三帝国が実施や提唱したものと、同じまたは関連していることを持ち出して、元の事柄が望ましくないものであると「証明」するものである。
もう1つの例は、「あなたは知ってるか?」というような切り出しで、ヒトラーも同様の考えや行動を行っていたことを示唆し、暗黙的に特定の考えや行動を批難するものがある[8]。例えば、タバコの規制に関する議論で、嫌煙家に「あなたはナチスも反タバコ運動を行っていたことを知っているか?」と質問することで、直接的には「禁煙運動はナチスと同じだ」などとレッテルを貼っていなくても、言外に禁煙運動はナチズムに基づくという印象を抱かせている。
ただし、議論を脱線させるようなことはなく、議論の筋道をわかりやすくするような目的でヒトラーやナチスに言及することは、ヒトラーに例える論証とは見なされない[9]。
歴史
編集「ヒトラーに例える論証(reductio ad Hitlerum)」というフレーズの初出は、シカゴ大学のレオ・シュトラウスが1951年春に「Measure: A Critical Journal」誌で用いたものであり[10]、広く知られるようになったのは同著者の1953年に出版された『Natural Right and History(自然権と歴史)』の第2章による[1]。
この流れが最後まで行くと、我々は必然的にヒトラーの影によって暗転してしまう場面に出くわす。残念ながら、言うまでもないことだが、過去数十年間において私達は検討において帰謬法の代わりに頻繁に用いられてきたこの誤謬を避けなければならない。すなわちヒトラーに例える論証(Reductio ad Hitlerum)だ。ある見解を、たまたまヒトラーも同じく有していたからといって反論されるものではない。 — Natural Right and History
このフレーズは帰謬法(reductio ad absurdum)と呼ばれる古典的な論証法に由来している。変異論証(argumentum variant)は、対人論証(argumentum ad hominem)のような古典的な誤謬の名前からその形を取っている。ナチス化(ad Nazium variant)は、嫌悪論証(argumentum ad nauseam)からさらにユーモラスに派生したものかもしれない。
前例
編集現代においては一般にヒトラーが引き合いに出されるが、この手の論理的誤謬は、第二次世界大戦以前から存在しており、純粋な悪の代名詞として引用される歴史上の人物は他にもいる[11]。
18世紀から20世紀初頭にかけては、『出エジプト記』のファラオは、歴史上最悪の人物として一般に見られていた[11]。アメリカ南北戦争の前年には、奴隷廃止論者は奴隷所有者のことを現代のファラオと侮蔑していたし、戦争中は南軍の一部でリンカーンのことを「現代のファラオ」と呼ぶ者もいた[11]。ナチスドイツが破れた後でも、ファラオはキング牧師の演説の中によく登場した。イスカリオテのユダやポンテオ・ピラトもまた、純粋な悪人の代名詞的存在であった[11]。しかし、普遍的な価値観としてのヒトラーのような人物は存在せず、地域や時代によって変わっていった。アメリカ独立後の数年間は、アメリカではしばしばジョージ3世が悪人の代表的存在であった。第7代アメリカ合衆国大統領のアンドリュー・ジャクソンは(その王のような独裁的手法を踏まえて)アンドリュー1世と揶揄された[11]。
誤謬か否か
編集ホロコーストに関する著書もある歴史家のダニエル・ゴールドハーゲンは、ヒトラーやナチスとの比較がすべて論理的な誤りではないと主張している。彼は著書『普通のドイツ人とホロコースト――ヒトラーの自発的死刑執行人たち』の中において、当時にホロコーストに加担したり、積極的に参加した多くの者たちや、その後のファシスト運動やネオナチ運動に参加した多くの者たちが、非難から逃れたり、ホロコースト的な側面を否定するのに、歴史的な物語を改編しようとしてきたと述べている[12][13]。反ユダヤ主義ではないかという批判に対し、それはヒトラーに訴える論証だと反論するのは、イギリスのホロコースト否定論者であるデイヴィッド・アーヴィングにも見られる[14]。
ヒトラーに例える論証に基づく主張は、実際にその主張が正しいかどうかに関わらず、政治的な対立者を貶めるためのテクニックとして用いられている側面がある。2000年にトーマス・フレミングは、自身の反対派がヒトラーに例える論証を用いていると批判した。
実例
編集1991年、マイケル・アンドレ・バーンスタイン(Michael André Bernstein)は、クラウンハイツ暴動後にルバビッチ派(ユダヤ教の一派)のコミュニティが、ニューヨークタイムズ紙に「今年の『水晶の夜』は8月19日にクラウンハイツで起こった」という見出しで掲載させた全面広告について、「ヒトラーに例える論証」が用いられていると指摘した。『水晶の夜』の目撃者であるヘンリー・シュワルツは、ニューヨークタイムズ上で「(クラウンハイツ暴動において)反ユダヤ的スローガン、および街頭での人々の暴力的行動がどんなに醜いものであったとしても(中略)『水晶の夜』は間違いなく起こらなかった出来事の一つであった」と述べている[16]。
『The American Conservative』は、ジョナ・ゴールドバーグの著書『リベラル・ファシズム』が当該誤謬を用いていると批判した。
欧米
編集2018年3月、英国外務大臣のボリス・ジョンソンは元スパイの毒殺未遂をめぐって、「アドルフ・ヒトラーが1936年のベルリン五輪でやったのと同じように、サッカーW杯を利用しようとしている」という下院議員の意見に同調して、プーチン大統領を批判した[18]。
2021年1月、ワシントン・ポスト紙は、2021年アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件について、ドナルド・トランプとその支持者を、ヒトラーが1923年に起こしたミュンヘン一揆と対比して論評した。[19]。
日本
編集2002年1月、社民党の福島瑞穂幹事長は山形市での講演で「小泉純一郎総理はヒトラーに似ている」と批判[20]。
2009年10月、自民党の谷垣禎一総裁は 鳩山由紀夫内閣の所信表明演説について、「ヒトラー・ユーゲントとかね、ヒトラーの演説に賛成している印象を受けた」と批判[21]。
2011年6月、自民党の石原伸晃は 菅直人内閣について、「共産主義の危機をあおり立て、その不安につけ込んで権力の座を掌握した独裁者ヒトラーと、どこが違うのでしょうか。」と批判[22]。
2012年3月、読売新聞の渡邉恒雄会長は、大阪市長の橋下徹が「選挙では国民に大きな方向性を示して訴える、政治はある種の白紙委任」と朝日新聞のインタビューに答えたことに関して「ヒトラーを想起」すると発言した[23]。
2012年3月、自民党の谷垣禎一総裁は「大阪維新の会」について、「戦前に日本軍部やヒトラー、ムッソリーニが台頭した際を想起させる」と批判した[24]。
2012年6月、大阪市長の橋下徹が民主党の消費税増税の方針について、「今回の話は完全な白紙委任で、ヒトラーの全権委任法以上だ」と批判した[25]。
2015年11月、自民党の中山泰秀が大阪市長の橋下徹について、「安物のヒトラーに乗っ取られている場合じゃない。新しいリーダーをつくりましょう」と批判した[26]。
2015年11月、自民党の西田昌司は、「ここ最近、橋下徹がヒトラーに見えてきました。私は眼科検診を受けるべきでしょうか?」との質問に対して、「ヒットラー戦略そのものをやっておられる。正しく見えている。」と発言。[27]。
2021年5月、国民民主党の足立信也は、橋本聖子と丸川珠代に対して、「選挙で選ばれた国会議員が組織委員会の会長をやるというのはヒトラー以来なんですよ。あり得ないんですよ」と批判。[28]。
2022年1月、元首相の菅直人が日本維新の会について、橋下徹らの弁舌が「極めて歯切れが良く、直接話を聞くと非常に魅力的な弁舌の巧みさ」があるとし、その政治スタンスや政治的主張は別とした上で、「ドイツで政権を取った当時のヒットラーを思い起こす」とのツイートを行った[29][30][31][32]。これに対し、日本維新の会は菅の所属する立憲民主党に抗議をした[33][34]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b “Natural Right and History”. University of Oklahoma (2008年). 2008年8月11日閲覧。
- ^ “Godwin’s Law, or Playing the Nazi Card”. Jewish Telegraphic Agency 21 April 2020閲覧。
- ^ “Playing the Nazi Card”. FAIR (1 March 2010). 21 April 2020閲覧。
- ^ Schneider, N. K; Glantz, S. A (1 October 2008). “"Nicotine Nazis strike again": a brief analysis of the use of Nazi rhetoric in attacking tobacco control advocacy”. Tobacco Control 17 (5): 291–296. doi:10.1136/tc.2007.024653. PMC 2736555 .
- ^ Leo Strauss, Natural Right and History. Chicago: University of Chicago Press, 1965 [1953], p. 42.
- ^ a b Curtis, Gary N. (2004年). “Logical Fallacy: The Hitler Card”. Fallacy Files. 2007年10月8日閲覧。
- ^ Curtis, Gary N. (2004年). “Logical Fallacy: Guilt by Association”. Fallacy Files. 2007年10月8日閲覧。
- ^ “You know who else ___? Origin? - catchphrase meme”. Ask MetaFilter. 2013年1月10日閲覧。
- ^ Gabriel H. Teninbaum, Reduction ad Hitlerum: Trumping the Judicial Nazi Card. Michigan State Law Review, Vol. 2009, p. 541-578, 2009
- ^ Hutchins, Robert Maynard (1951). Measure: A Critical Journal. H. Regnery Company 5 February 2014閲覧。
- ^ a b c d e Brian Palmer (October 4, 2011). “Before Hitler, Who Was the Stand-In for Pure Evil?”. Slate. November 27, 2014閲覧。
- ^ Hitler's Willing Executioners: Ordinary Germans and the Holocaust, Daniel Jonah Goldhagen 1997
- ^ "Eichmann was Outrageously Stupid". Hannah Arendt: The Last Interview: And Other Conversations. November 9, 1964.
- ^ Broomfield, Matt (7 May 2017). “Undercover at a secret 'neo-Nazi' meeting with Holocaust denier David Irving”. Independent. Independent News. 22 Nov 2019閲覧。
- ^ Thomas Fleming, editor, Chronicles (Rockford, Illinois), May 2000, p. 11.
- ^ “Foregone Conclusions”. Escholarship.org. 2011年7月7日閲覧。 “The Lubavitcher community itself, in the form of the 'Crown Heights Emergency Fund,' placed a full-page advertisement in The New York Times on September 20, 1991, under the heading 'This Year Kristallnacht Took Place on August 19th Right Here in Crown Heights.' Their version of Leo Strauss's reductio ad Hitlerum was rightly perceived by those who had been in Germany on Kristallnacht (November 9, 1938) as an outrageous comparison.”
- ^ Austin Bramwell (January 28, 2008). “Goldberg's Trivial Pursuit”. The American Conservative. 30 January 2014閲覧。
- ^ “「プーチンはロシアW杯を美化」英外相、ヒトラー下のベルリン五輪になぞらえ”. AFPBB NEWS. 2018年3月22日閲覧。
- ^ “Trump’s last days and the echo of one specific Hitler analogy”. The Washington Post. 2021年1月15日閲覧。
- ^ “日本社民党幹事長「小泉首相はヒトラーに似ている」”. 中央日報. 2022年1月27日閲覧。
- ^ “自民酷評「感傷的」 所信表明、公明・共産は一部評価”. 朝日新聞. 2009年10月26日閲覧。
- ^ “第177回国会 衆議院 本会議 第25号 平成23年6月2日”. 国会会議録. 2011年6月2日閲覧。
- ^ “読売渡辺会長が橋下市長発言に懸念 「『白紙委任』はヒトラーを想起」”. JCASTニュース. 2012年3月12日閲覧。
- ^ “「ヒトラー台頭時の雰囲気」 大阪維新巡り谷垣氏”. 日経電子版. 2012年3月18日閲覧。
- ^ “増税目指す政府「ヒトラー以上」 橋下氏、解散を要求(アーカイブ)”. 東京新聞. 2012年6月23日閲覧。
- ^ “「安物のヒトラー」「暗黒軍団」大阪W選 悪口大会でスタート”. 東京スポーツ. 2015年11月6日閲覧。
- ^ “「ここ最近、橋下徹がヒトラーに見えてきました。眼科に行くべきでしょうか?」週刊西田一問一答おまけ”. YouTube. 2015年11月23日閲覧。
- ^ “第204回国会 参議院 厚生労働委員会 第16号 令和3年5月18日”. 国会会議録. 2021年5月18日閲覧。
- ^ “https://mobile.twitter.com/naotokan/status/1484356560432238593”. Twitter. 2022年1月26日閲覧。
- ^ “日本維新の会は「ヒトラーを思い起こす」菅元首相がツイート 藤田幹事長、立憲民主党に抗議文(日本テレビ系(NNN))”. Yahoo!ニュース. 2022年1月26日閲覧。
- ^ “菅直人氏、維新は「ヒトラー想起」 指摘に足立氏反発:時事ドットコム”. www.jiji.com. 2022年1月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月26日閲覧。
- ^ “「橋下徹氏の弁舌ヒトラー想起」 菅直人氏ツイートに批判続出 吉村知事「とんでもない」”. FNNプライムオンライン. 2022年1月26日閲覧。
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- ^ “菅直人氏、維新は「ヒトラー想起」 指摘に足立氏反発:時事ドットコム”. www.jiji.com. 2022年1月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月26日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- “Is it ever OK to call someone a Nazi?”. BBC News. (14 July 2010)
- Toying with Hitler and History – slideshow by Der Spiegel
- Mike Huckabee's reductio ad Hitlerum, Lincoln Mitchell, April 7 2013
- Harris, Adam J. L.; Hsu, Anne S.; Madsen, Jens K. (11 June 2012). “Because Hitler did it! Quantitative tests of Bayesian argumentation using ad hominem” (PDF). Thinking & Reasoning (London, UK: Psychology Press) 18 (3): 311–343. doi:10.1080/13546783.2012.670753 14 January 2015閲覧。.
- Scalambrino, Frank (2018). “Reductio ad Hitlerum”. Bad Arguments (John Wiley & Sons): 212–214. doi:10.1002/9781119165811.ch44 .