パーヴェル・セレブリャーコフ
パーヴェル・アレクセーヴィチ・セレブリャーコフ[1](ロシア語: Павел Алексеевич Серебряков;ラテン文字転写:Pavel Alexeyevich Serebryakov、1909年2月28日 ツァリーツィン〔現ヴォルゴグラード〕 - 1977年8月17日 レニングラード)は旧ソ連のロシア人ピアニスト。
パーヴェル・アレクセーヴィチ・ セレブリャーコフ | |
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出生名 | Павел Алексеевич Серебряков |
生誕 |
1909年2月28日 ロシア帝国 ツァリーツィン |
死没 |
1977年8月17日(68歳没) ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 レニングラード |
学歴 | レニングラード音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ピアニスト |
担当楽器 | ピアノ |
経歴
編集1909年、ロシア帝国・ツァリーツィンで生まれた。父からピアノの弾き方を教わったのち[2]、1923年にレニングラード音楽院に入学した。音楽院ではL.W.ニコラエフ教授に師事した。さらにアレクサンドル・グラズノフ教授からも学んだ。
1932年にレニングラード音楽院で教職につき、翌年からは同音楽院の教授に就任。その後1961年から歿年まで院長を務めた。
演奏活動
編集1933年に第1回国民コンクールで準優勝し、演奏旅行を行う。1953年にエフゲニー・ムラヴィンスキー指揮によるチャイコフスキーピアノ協奏曲第1番の最初の録音が行われた際には、ソリストとして参加した。また、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ミハイル・ヴァイマンとともにロストロポーヴィチ三重奏団の一員であった。 日本との関係では、1960年と1963年に来日した[2]。
受賞・栄典
編集註記
編集- The New Grove dictionary of music and musicians. XVII, page 159.
- Musical Protraits of the 20th Century - LXXVIII(The Voice of Russia)