パッセロ岬沖海戦
パッセロ岬沖海戦 (パッセロみさきおきかいせん、英語: Action off Cape Passero) は[1]、第二次世界大戦の地中海攻防戦において、1940年(昭和15年)10月11日深夜から10月12日未明にシチリア島南東沖でイギリス海軍の地中海艦隊と、イタリア王立海軍の駆逐艦及び水雷艇との間で戦われた海戦である[注釈 1]。
パッセロ岬沖海戦 | |
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イギリス軽巡洋艦エイジャックス。 | |
戦争:第二次世界大戦 | |
年月日:1940年10月12日 | |
場所:シチリア島南東の地中海 | |
結果:連合国の勝利 | |
交戦勢力 | |
イギリス | イタリア王国 |
指導者・指揮官 | |
マッカーシー大佐 | カルロ・マルゴッティーニ大佐 † アルベルト・バンフィ大佐 |
戦力 | |
軽巡洋艦1 | 駆逐艦4、水雷艇3 |
損害 | |
軽巡1損傷、戦死13 | 駆逐艦1、水雷艇2沈没 駆逐艦1損傷 各艦戦死合計約200 |
この夜戦は、連合国軍のマルタへの補給作戦の結果生起した。イタリア王立海軍の水雷戦隊がイギリス軍輸送船団を襲撃したが、護衛の英軽巡洋艦エイジャックス (HMS Ajax) の邀撃によりイタリア水雷艇2隻が沈没、さらに夜戦で損傷したイタリア駆逐艦1隻が英重巡洋艦ヨーク (HMS York, 90) に撃沈された[2][3]。
背景
編集1940年(昭和15年)10月、イギリス海軍の地中海艦隊 (Mediterranean Fleet) は[注釈 2]、地中海戦域においてアレクサンドリアからマルタへの補給作戦(MB6作戦)を開始した。マルタへ向かうMF4船団は4隻の貨物船からなり、防空巡洋艦2隻と駆逐艦4隻によって護衛されていた[注釈 3]。 この船団の支援のため、戦艦と空母を含む地中海艦隊の主力艦も出撃した[注釈 4]。駆逐艦インペリアル (HMS Imperial, D09) が機雷原で損傷した以外は特に何事も無く、10月11日に船団は目的地マルタに着いた。悪天候のためこの時までイギリス輸送船団や護衛部隊は発見されず、イタリア艦隊による妨害を受けることは無かった。だが、帰投する部隊はマルタ出航後すぐにイタリア機に発見された。
戦闘
編集イタリア王立海軍 (Regia Marina) の艦隊司令官イニーゴ・カンピオーニ提督は、イギリス艦隊がジブラルタルへ向かう場合に備えて駆逐艦部隊にボン岬へ向かうよう命じた。カンピオーニ提督は敵船団に対し大型艦を向かわせるには既に遅すぎると判断した。同じ頃、イタリア駆逐艦4隻と水雷艇3隻が北緯35度45分から北緯35度25分の間を哨戒していた。それらは第11駆逐隊(カルロ・マルゴッティーニ大佐)が指揮するソルダティ級駆逐艦 (Classe Soldati) 4隻 (アルティリエーレ〈旗艦〉、カミチア・ネーラ、アヴィエーレ、ジェニエーレと、第1水雷隊(アルベルト・バンフィ大佐、アイローネ座乗)のスピカ級水雷艇 (Classe Spica) 3隻 (アリエール、アルチオーネ、アイローネ) であった。これらは南北に並び西に向かって航行していた。
一方、イギリス側では第7巡洋艦戦隊 (7th Cruiser Squadron) が偵察のため先行していた。
10月12日午前1時35分、第7巡洋艦戦隊の軽巡洋艦エイジャックス(艦長マッカーシー大佐)は、その左舷前方19,600ヤードの場所を東に航行していた伊水雷艇アルチオーネに発見された。続いて伊水雷艇2隻(アイローネ、アリエール)も英軽巡を発見し、合計3隻のイタリア水雷艇は全速力で敵巡洋艦に向かっていった。1時55分、英軽巡エイジャックスも伊水雷艇2隻(アイローネ、アリエール)を発見した。
1時57分、イタリア水雷艇3隻が魚雷を発射した。アルチオーネが1900ヤードの距離で2本の魚雷を発射、アイローネも2本を発射し、アリエールは1本を発射した。しかし、英軽巡エイジャックスが増速と変針したことで魚雷はすべて外れた。アイローネはさらに2本の魚雷を発射するとともに砲撃を行った。魚雷は命中しなかったが、砲撃は3発がエイジャックスに命中した。
一方、英軽巡エイジャックスもイタリア水雷艇に対し砲撃を開始する。まず、伊水雷艇アリエールが被弾し20分後に沈没した。アリエールでは艦長を含め大部分の乗員が戦死した。アリエールは撃沈される前に魚雷1本を発射したとされる。次はアイローネが命中弾を受けた。アイローネはすぐに戦闘不能となり炎上して3時34分に沈没した。
もう1隻の水雷艇アルチオーネは無傷であり、砲撃を行った後2時3分に接触を絶った。
2時10分、北上していた伊駆逐艦アヴィエーレ (Aviere) が英軽巡エイジャックスを発見した。アヴィエーレは英軽巡に対し砲撃を行ったが、反撃により被弾損傷して戦場を離脱した。アヴィエーレは英軽巡に対し魚雷を発射しようとしたが、出来なかった。 2時29分からは、英軽巡エイジャックスと伊駆逐艦アルティリエーレ (Artigliere) が交戦する。アルティリエーレは魚雷を発射しようとしたところで英軽巡から砲撃された。アルティリエーレは1本の魚雷を発射し2800ヤードで3回斉射した後、被弾した。発射した魚雷は外れたが、4.7インチ砲弾4発が命中し、エイジャックスのレーダーなどを損傷させた。一方のエイジャックスも伊駆逐艦カミチア・ネーラ (Camicia Nera) を砲撃後(命中弾なし)、戦闘を打ち切った。エイジャックスは13名の死者と20名以上の負傷者を出していた。また、この戦闘で490発の砲弾と4本の魚雷を発射した。
大破した伊駆逐艦アルティリエーレでは、マルゴッティーニ艦長を含めて多数が戦死した。僚艦カミチア・ネーラがアルティリエーレを曳航しようとしたが、空襲や、他の英巡洋艦が現れたため断念している。英空母イラストリアス (HMS Illustrious,87) から発進したソードフィッシュ (Fairey Swordfish) 小数機が損傷したイタリア駆逐艦を襲撃したが、魚雷は1本も命中しなかったという[5]。結局、伊駆逐艦アルティリエーレは英重巡洋艦ヨーク (HMS York, 90) によって撃沈された[2]。生存者の大部分は、翌日以降イタリア海軍によって救助された。なお、カミチア・ネーラは無事帰投している。また、アルチオーネは敵艦が去ったあと再び戦闘海域に戻ってきて、アリエールとアイローネの生存者を救助した。
この海戦後、イタリア王立空軍 (Regia Aeronautica) は戦場を離脱してゆくイギリス地中海艦隊を爆撃し、空母と重巡洋艦に命中弾を与えたと主張した[注釈 1]。イギリス側の記録では、10月12日に英空母イーグル (HMS Eagle) がSM.79 (Savoia-Marchetti SM.79 Sparviero) の爆撃で至近弾をうけた[注釈 5]。 また10月13日にドデカネス諸島レロス島を襲撃した英空母イラストリアスと護衛部隊をイタリア空軍がエーゲ海で襲撃し、SM.79が英軽巡リヴァプール (HMS Liverpool, C11) を撃破した[注釈 6]。
結果
編集イギリス海軍、イタリア海軍とも、戦果を過剰に見積もって大本営発表をおこなった[注釈 1]。
イタリア海軍は初めて、夜戦におけるイギリス海軍の技術や装備が優れていることに気づいた。もしイタリアが技術的な差を埋めようとすれば、イギリス海軍による照明弾や探照灯、焼夷弾の大規模な使用に対抗しなければならなかった。また、イタリアは敵によるレーダーの使用も疑ったが、この時まではそれは単なる推測でしかなかった。イタリアは、航空偵察における欠陥が主力部隊の素早い展開を妨げ、イギリス側に状況が不利であれば戦闘を回避できるという有利な状況をもたらした、と結論付けた。
出典
編集注釈
編集- ^ a b c 第一七、シシリー海峡英伊夜戰[8] 日本海海戰の大勝利を永遠に記念するために定められた海軍記念日は五月廿七日となつてゐるが、實際は廿七、廿八の兩日に亙つて海戰が續けられたのであつた。東郷大将麾下の聯合艦隊が哨艦信濃丸の「敵艦見ゆ」の警報を接受し、意氣衝天「撃滅」を確信して出動以來、廿七日は日没まで主力同志の激闘が交へられ大勢は既に決したが、最後の結末をつけたのは廿七日の夜から廿八日朝にかけての水雷隊の活躍であつた。舷々相摩し、敵艦の備砲が俯角の度を過ぎて發砲が出來ぬまで敵に接近した水雷隊の活躍によつて、バルチック艦隊は覆滅してしまつたのである。白晝堂々と立向つては到底勝味がないが、奇襲以てこれに當れば大艦をも屠り得るのが水雷隊の特色である。
一九四〇年十月十一日夜から翌拂暁にかけてマルタ島シシリー海峡上にて哨戒中のイタリー水雷隊は有力なイギリス艦隊に遭遇し砲火を交へた。夜中のことであるから双方とも敵状の偵察が不充分だつたと見えて各々違つた宣傳を行つてゐるが、イギリス側は航空母艦の外に南米ウルガイ沖の海戰で勇名を馳せたアジヤツクス號(六,九三七トン)及びヨーク號(八,二五九トン)ともう一隻ネプチユーン型(七,二六〇トン)の巡洋艦が加わつてゐたらしく、イタリー側は乙級巡洋艦を旗艦として驅逐艦二隻、水雷艇三隻位の勢力だつたらしい。イタリー側は魚雷の猛攻により、ネプチユーン型の一隻を撃沈し、水雷艇二隻、千四百トン級の驅逐艦一隻を失つたと發表してゐるが、イギリスはアジヤツクスがアイメロ型驅逐艦二隻を撃沈、更に大型の一隻にも損傷を與へ、後僚艦ヨークがこれを撃沈したと發表してゐる。イタリー側は自己の損害を明かにした上、戰果を公表してゐるのだから、英艦の撃沈は確實と思はれるが、午前二時半而も戰闘最中の視認は困難だつたに相違ない。夜が明け渡つてからイタリー空軍は索敵の結果東方に退却中の同艦隊を發見、高角砲と艦載機の邀撃を排して、航空母艦の艦首及び甲級巡洋艦の甲板に命中彈を與へ、敵機を二機撃墜したが、致命的打撃を與へるまでには至らなかつた。この空中戰でイタリーも一機失つてゐる。 - ^ 地中海艦隊司令長官はカニンガム中将で[4]、戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) に将旗を掲げていた。
- ^ 貨物船4隻(クラン・マコーリー、クラン・ファーガスン、ラナークシャー、メムノン)、防空巡(カルカッタ、コヴェントリー)、駆逐艦4隻。
- ^ 戦艦4隻(ウォースパイト、ヴァリアント、マレーヤ、ラミリーズ)、空母2隻(イーグル、イラストリアス)、巡洋艦6隻(ヨーク、グロスター、リヴァプール、エイジャックス、オライオン、シドニー)、駆逐艦16隻からなる。
- ^ この時は異常がなかったが、ジャッジメント作戦 (Operation judgement) 決行直前に燃料漏れ事故が発生し、ターラント港に奇襲をかける英空母はイラストリアス1隻になった[6](タラント空襲)[7]。
- ^ 10月14日の空襲で損傷したリヴァプールは、僚艦オライオン (HMS Orion, 85) に曳航され、16日アレクサンドリアに戻った。
脚注
編集- ^ Struggle for the Middle Sea, p.57
- ^ a b 撃沈戦記 1988, p. 325.
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 91–92第一期/一九四〇年三月~十二月の年表/A.イタリア海軍の艦艇の損失
- ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 111.
- ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 244–245「イラストリアス」地中海へ
- ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 112.
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 82–85タラント夜襲
- ^ 列強の臨戦態勢 1941, pp. 122–123(原本221-223頁)
参考文献
編集- 木俣滋郎『大西洋・地中海の戦い ヨーロッパ列強戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年2月(原著1986年)。ISBN 978-4-7698-3017-7。
- 永井喜之、木俣滋郎「第2部 第二次大戦 - 外国編(6)イギリス重巡洋艦「ヨーク」」『撃沈戦記』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1988年10月。ISBN 4-257-17208-8。
- 永井喜之、木俣滋郎「第3部 第二次世界大戦 - 外国編(20)イギリス空母「イラストリアス」」『新戦史シリーズ撃沈戦記・PARTII』朝日ソノラマ、1988年10月。ISBN 4-257-17223-1。
- 三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1。
- Bragadin, Marc'Antonio: The Italian Navy in World War II, United States Naval Institute, Annapolis, 1957. ISBN 0-405-13031-7.
- Green, Jack & Massignani, Alessandro: The Naval War in the Mediterranean, 1940-1943, Chatam Publishing, London, 1998. ISBN 1-86176-057-4
- Sierra, Luis de la: La guerra naval en el Mediterráneo, 1940-1943, Ed. Juventud, Barcelona, 1976. ISBN 84-261-0264-6. (In Spanish).
- Vincent P. O'Hara, Struggle for the Middle Sea, Naval Institute Press, 2009, ISBN 978-1-59114-648-3
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 中外商業新報政治部 編「第四章 今次大戦に於ける海戦の様相」『烈強の臨戦態勢 経済力より見たる抗戦力』東洋経済新報社、1941年12月 。