パウル・フリードリヒ (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)
第2代メクレンブルク=シュヴェリーン大公
パウル・フリードリヒ(Paul Friedrich, 1800年9月15日 - 1842年3月7日)は、メクレンブルク=シュヴェリーン大公国の大公(在位:1837年 - 1842年)。メクレンブルク=シュヴェリーン大公の太子であったフリードリヒ・ルードヴィヒ(1778年 - 1819年)の長男。
パウル・フリードリヒ Paul Friedrich | |
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メクレンブルク=シュヴェリーン大公 | |
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在位 | 1837年 - 1842年 |
出生 |
1800年9月15日 ルートヴィヒスルスト |
死去 |
1842年3月7日(41歳没) シュヴェリーン |
埋葬 | シュヴェリーン大聖堂 |
配偶者 | アレクサンドリーネ・フォン・プロイセン |
子女 |
フリードリヒ・フランツ ルイーゼ・マリー・ヘレーネ フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラウス |
家名 | メクレンブルク=シュヴェリーン家 |
父親 | フリードリヒ・ルードヴィヒ・ツー・メクレンブルク |
母親 | エレナ・パヴロヴナ |
生涯
編集パウル・フリードリヒは1800年9月15日、フリードリヒ・フランツ1世の長男フリードリヒ・ルートヴィヒとその最初の妃であったロシア皇帝パーヴェル1世の皇女エレナ・パヴロヴナ(1784年 - 1803年)の間に第一子としてルートヴィヒスルスト(メクレンブルク=フォアポンメルン州ルートヴィヒスルスト郡)で生まれた。1814年から1818年までジュネーヴ大学で、次いでイェーナ大学とロストック大学で教育を受けた。
1819年に父フリードリヒ・ルートヴィヒが死去すると、大公位の法定推定相続人となり、1837年に祖父フリードリヒ・フランツ1世が死去すると大公位に即いた。
パウル・フリードリヒは首都をルートヴィヒスルストからシュヴェリーンへ70年ぶりに戻し、またインフラストラクチャーの整備と司法制度の近代化に取り組んだ。住居となるシュヴェリーン城の再建計画も立てたが、彼が施工前に没したためこれは実施されなかった。
1842年3月7日にパウル・フリードリヒはシュヴェリーンで死去し、長男のフリードリヒ・フランツ2世が大公位を嗣いだ。遺体はシュヴェリーン大聖堂に葬られた。
子女
編集パウル・フリードリヒは1822年5月22日にベルリンでプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の王女アレクサンドリーネと結婚した。彼女との間には以下の二男一女をもうけた。
- フリードリヒ・フランツ(1823年 - 1883年) - メクレンブルク=シュヴェリーン大公
- ルイーゼ・マリー・ヘレーネ(1824年 - 1859年) - ヴィンディッシュ=グレーツ侯フーゴー妃
- フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラウス(1827年 - 1879年)