バール・マル
バール・マル(Bhar Mal, 1499年頃 - 1574年1月27日)は、北インドのラージャスターン地方、アンベール王国の君主(在位:1548年 - 1574年)。ビハーリー・マル(Bihari Mal)、バーラー・マル(Bhara Mal)、バーグ・マル(Bhagmal)とも呼ばれる。
バール・マル Bhar Mal | |
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アンベール王 | |
在位 | 1548年 - 1574年 |
別号 | ラージャ |
出生 |
1499年頃 アンベール |
死去 |
1574年1月27日 アーグラ |
子女 |
バグワント・ダース マリヤム・ウッザマーニー・ベーグム |
王朝 | カチワーハー朝 |
父親 | プリトヴィーラージ |
宗教 | ヒンドゥー教 |
生涯
編集1499年頃、アンベール王国の君主プリトヴィーラージの息子として、アンベールで誕生した[1][2]。
1548年5月15日、甥のラタン・シングが自身の弟アスカラン・シングに殺害された[1][2]。だが、
1556年、ムガル帝国の皇帝アクバルが即位した際、バール・マルはその後すぐに帝国のアーグラの宮廷に伺候していた[3]。その際、部下のラージプートが人々が狂った象に慌てふためいていた際、毅然とした態度を示したため、彼はアクバルから好印象を受けた[3]。
1562年、バール・マルは皇帝アクバルに自身の娘ハルカー・バーイーを嫁がせた[3]。このとき、皇帝はアジュメールに向かいつつあり、なおかつバール・マルがこの地方の地方長官に迫害されていることを知っていた[3]。
こうして、バール・マルは帝国の高位の貴族に列せられたばかりか、帝国との同盟関係を確実なものにすることが出来た[3]。他方、アクバルにとっても自身の権力基盤を盤石にするため、ラージプートとの同盟は欠かせないものとなった。バール・マルは息子バグワント・ダース、孫マーン・シングとともに宮廷に出仕し、以降帝国の忠実な同盟者であり続けた。
また、バール・マルの娘は帝国の宮廷では「マリヤム・ウッザマーニー」を名乗り、彼女はのちに皇帝となるジャハーンギールを生んだ。とはいえ、彼女はヒンドゥー教からイスラーム教への改宗を迫られることはなかった。
1572年、アクバルがグジャラート・スルターン朝へ遠征したとき、バール・マルは皇室の女性全員が住んでいるアーグラの責任者に任命された[4]。
出典・脚注
編集参考文献
編集- サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。
- Beveridge H. (tr.) (1907, Reprint 2000). The Akbarnama of Abu´l Fazl, Vol. II, Kolkata: The Asiatic Society, ISBN 81-7236-093-2.
- Sarkar, J.N. (1984, reprint 1994). A History of Jaipur, New Delhi: Orient Longman, ISBN 81-250-0333-9.