ハンガリー水
ハンガリー水(ハンガリーすい、仏: Eau de Hongrie オードゥオングリ、英: Hungary Water ハンガリーウォーター)、ハンガリー王妃の水(ハンガリーおうひのみず、仏: eau de la reine de hongrie、英: the Queen of Hungary's Water[1])は、ローズマリーをアルコールと共に蒸留した蒸留酒、薬酒である[2]。日本には英語圏を介してその名が広まったと思われ、ハンガリーウォーターと呼ばれることが多い。ローズマリーの有効成分や強い芳香成分が含まれており、当初は薬酒として作られた。12世紀の修道女ヒルデガルト・フォン・ビンゲンが発明したと伝えられるラベンダー水(ただし、ヒルデガルトは彼女の著書で、ラベンダー水に言及していない)と同様に、ヨーロッパにおけるアルコールベースの香水の起源のひとつといわれている[3]。(それ以前は、香りはワインのベースまたは油性の混合物に混ぜ込まなけらばならなかった[3]。)中世後期には香水として使用されており、ヴィクトリア朝まで使われていた[3]。
「ハンガリー」と冠するが、誕生した具体的な場所・年代は不明であり、製作者も定かではない。「ハンガリー王妃の水」とも呼ばれるが、誕生にハンガリー王妃が関わっている、またはハンガリーが起源である歴史的な根拠はなく、ハンガリー王妃に関するエピソードは創作であり、商品の箔付けのために考え出されたともいわれる。物語では、その製法は、修道士もしくは宮廷に仕える錬金術師が王妃のために考案した、または、閉ざされた庭園に、隠者あるいは若者に姿を変えた天使が現われて教えたとされる[2]。
蒸留法で作られるハンガリー水は、ローズマリーを何度も蒸留する必要があるため、技術的に難しく高価であり、一般に売られている価格ほど安く作ることはできない[2]。そのほとんどは、ローズマリーをアルコールに漬けたチンキか、アルコールや水に、ハンガリー水やローズマリーの精油を少量混ぜただけのものである[2]。
製造法・使用法
編集ヨハン・ゲオルグ・ホイヤー(Johann Georg Hoyer)は、王妃エルジェーベト自身による金文字で書かれた製造法が、ウィーンの王室図書館に保存されていると語っている。これは広く知られているが、誤りであることがわかっている[2]。
現存する最古の製造法・使用法は、1659年にフランクフルトで発売されたジャン・プレヴォ(Jean Prevot)の小冊子にあり、蒸留法を使用している[2]。
- 「四回蒸留した生命の水(アルコールのこと)を三、ローズマリーの枝先と花を二とせよ。これらを密閉容器に入れ、五〇時間、微温に保ち、その後、蒸留せよ。毎週一回、朝、この一ドラム(分量)を食物か飲物に入れ、服用すること。さらに、毎朝、あなたの顔と傷んだ脚をそれで洗うこと[4]。」
古いレシピでは、ローズマリーの枝葉と花(もしかしたらタイムも)、強い蒸留酒が使われていた。後世には、ラベンダー、ミント、セージ、マジョラム、コスタス(木香)、オレンジの花(ネロリ)、レモンなどが加えられた。現代の香水研究家Nancy M. Boothは、現代的な香水としてのハンガリー水の材料に、レモンピールかオレンジピール、オレンジ花水(芳香蒸留水)、グリセリン、ウォッカ、レモン・ベルガモット・ローズマリーの精油、細かくしたペパーミントの葉をあげている[5]。
王妃エリザベートに関する言い伝えでは、手足のしびれを治すための外用薬として使用されている[6]。
起源
編集蒸留酒
編集ハンガリー水の誕生には、蒸留酒の存在が不可欠である。8世紀の錬金術師マルクス・グロエクスは、白ワインを蒸留した記録を残している。これが行われた場所は不明であり、錬金術の実験であって飲むためのものではなかった[7]。11世紀頃に錬金術師たちによって、蒸留酒の製造技術が確立されたとみられる。
蒸留酒(スピリット)は、アラビア語のアル・イクシル(al-iksir、霊薬)に由来するエリクシル(羅: elixir)、または生命の水(アクアヴィテ / 羅: Aquavitae)[8][9]と呼ばれ、薬として利用された。
リキュール
編集13〜14世紀スペインの錬金術師・科学者で、モンペリエ大学医学部の教授だったアルナルドゥス・デ・ビラ・ノバ(Arnaldus de Villa Nova, c. 1235 - 1313, アルノー・ド・ヴィルヌーブとも)が、ロー・クレレット(L'eau clairette)という薬用リキュールを作成した。これは、具体的に植物成分を記した最初のリキュールの記録であり、ヴィラ・ノヴァはリキュールの祖ともいわれる。ロー・クレレットの材料は「ワインを蒸留したスピリッツ、バラ、レモン、オレンジ・フラワー、スパイスなど」であった[7]。
また、イタリアでは1332年に、リキュールが薬用として輸出された記録が残っており[10]、1346年に始まるヨーロッパでのペスト大流行の際には、貴重な薬品として扱われた[11]。15世紀にはいると、イタリアで様々なリキュールがつくられるようになり、1480年には、医学の町として知られるイタリアの都市サレルノで、多くのリキュールが薬酒として生産された[7]。
当時の西洋文化の中心は、アラビアやその周辺である地中海地域であったが、王妃エルジェーベトが生きていた14世紀に、遠く離れたハンガリーに、香りのよい薬草と酒精(スピリット)を混ぜて蒸留する技術が伝わっていたかどうかは不明である。ドイツ技術学の創始者ヨハン・ベックマン(1739 - 1811)は、伝わっていたとする説は、「どちらかといえば奇妙な感を受ける。」という[2]。
ハンガリー水
編集ハンガリー水の誕生は、ハンガリー王女で列聖された聖エルジェーベト(1207年 - 1231年)、もしくはポーランド王女でハンガリー王カーロイ1世の王妃エルジェーベト(1305年 - 1380年)が関わっているともいわれる。17世紀のジャン・プレヴォ(Jean Prevot)の小冊子にハンガリー水の最初の記述がみられ、そのレシピは蒸留法を使ったものである。この冊子からは、プレヴォが王妃エルジェーベトと聖エルジェーベトを混同していることがわかる[2]。
王妃エルジェーベトに由来するという説が有名で、「ハンガリー王妃の水」とも呼ばれ、次のようなフィクションが知られる。
- 70歳を超えた高齢の王妃は、手足のしびれ[6](リューマチであったとされる[12])に苦しんでいた。それを治すために、修道士、錬金術師、もしくは廷臣が、ハンガリー水を献上した。これを外用した王妃はみるみる回復し、若返ったことから、ポーランド王に求婚され、ハンガリーとポーランドは一つの国になった。[12]
当時のポーランド王は、王妃エルジェーベトの息子のハンガリー王ラヨシュ1世が兼任しているため、この物語は作り話であり、当時のハンガリー・ポーランド同君連合に由来すると思われる。求婚者をポーランド王子とする話もみられるが、ラヨシュ1世の子供(エルジェーベトの孫に当たる)は王女のみである。また、20代のリトアニア大公だという人もあるが[13]、それに当てはまるリトアニア大公ヨガイラ(1351年 - 1434年, のちのポーランド王ヴワディスワフ2世)は、エルジェーベトの孫娘ポーランド王ヤドヴィカの婿である。ベックマンによると、求婚者に当たる歴史上の人物を探したが、徒労であったという。「ハンガリー王妃の水」という名称に関しては、ベックマンは「ローズマリー水を売ろうとして調合した人々が商品に箔と信用をつけるために、考え出したというのが、一番的を射た見方だと思っている。」と述べている[2]。
17世紀の植物学者たちは、ローズマリーについて語る際、ハンガリー水に触れることなく、その特性や薬効を語っており[2]、その時代にまだ一般的でなかったとも思われる。だが、16世紀のイタリアの医師ザパタ(Zapata)は、完全なものではないが、ロー・クレレットを作った13〜14世紀の錬金術師・医師アルナルドゥス・デ・ビラ・ノバが製造法を知っていた、と語っている[2]。
薬効
編集中世ヨーロッパでは、治療薬、香水として各地で愛好され、その人気は18世紀にオーデコロンが登場するまで続いた。
ジャン・プレヴォ(Jean Prevot)の小冊子では、次のように薬効が説明されている[2]。
- 「それは体力を回復させ、精神を高揚させ、膝や神経を直し、視力を元に戻し、衰えないようにし、命を長らえさせるのである。[4]」
ニコラス・カルペパーがラテン語から英訳し、1649年に出版された「ロンドン薬局方」(Physical Directory, or a Translation of the London Directory)には、次のように記載されている。
脚注
編集- ^ The Perfume Inspired by Tokaji Aszu: Viktoria Minya Eau de Hongrie
- ^ a b c d e f g h i j k l 『西洋事物起源(二)』 ヨハン・ベックマン(著)、特許庁内技術史研究会(訳) 岩波書店(1999年)
- ^ a b c 『香りの来た道』 諸江辰男(著)光風社出版(1986年)
- ^ a b Selectiora remedia multiplici usu comprobata inter secreta medica jure recenseas.
- ^ Queen of Hungary Water: some experiments in perfumery
- ^ a b 『ハーブのたのしみ』 A.W.ハットフィールド(著)、山中雅也・山形悦子(訳)八坂書房(1993年)
- ^ a b c 『リキュールの世界』 福西英三(著)河出書房新社(2000年)
- ^ お酒の話5 特集:ウィスキー類酒類総合研究所
- ^ お酒の話6 特集:リキュール酒類総合研究所
- ^ リキュール入門 1.リキュールとは 語源サントリー
- ^ リキュール入門 1.リキュールとは 歴史サントリー
- ^ a b 『クレオパトラも愛したハーブの物語 魅惑の香草と人間の5000年』 永岡治(著)PHP研究所(1988年)
- ^ Halcyon Days sanda