ハンガリー共和国 (1919年-1920年)

1919年から1920年までのハンガリー国家
ハンガリー共和国
Magyar Köztársaság (ハンガリー語)
ハンガリー人民共和国 (1918年-1919年) 1919年 - 1920年 ハンガリー王国 (1920年-1946年)
ハンガリーの国旗 ハンガリーの国章
国旗国章
国歌: Himnusz(ハンガリー語)
賛称
ハンガリーの位置
ハンガリー共和国の位置
公用語 ハンガリー語
宗教 カトリックカルヴァン派ルター派東方正教東方典礼カトリック教会ユニタリアン派ユダヤ教
首都 ブダペスト
摂政
1919年 - 1919年ヨーゼフ・アウグスト
元首
1919年 - 1919年 フリードリッヒ・イシュトバーン英語版[注釈 1]
1919年 - 1920年フサール・カーロイ英語版[注釈 1]
首相
1919年 - 1920年フリードリッヒ・イシュトバーン英語版
1919年 - 1920年フサール・カーロイ英語版
面積
1920年[1]92,833km²
人口
1920年7,980,143人
変遷
建国 1919年8月8日
国家の承認1919年11月25日
議員選挙1920年1月25日-26日
王政復古1920年2月29日[2]
通貨クローネ

ハンガリー共和国[3][4]ハンガリー語: Magyar Köztársaság)は、1919年8月から1920年2月までの短期間、旧ハンガリー第一共和国(現在のハンガリーの大部分とオーストリアスロバキアスロベニアの一部を支配していた)の中央と西部に存在した共和国である。ハンガリー・ルーマニア戦争の余波の中、1918年10月31日以前の状態に戻そうとする反革命勢力によって設立された国家である[5][6][7]

ハンガリーの歴史

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ハンガリー ポータル

歴史

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1919年8月6日、右翼反革命団体「白い家同志会」の指導者フリードリヒ・イシュトバーン英語版は、ギュラ・ペードル英語版政権を追放し[8]ルーマニア陸軍の支援を得て、無血クーデターによって政権を奪取した[9]。このクーデターは、ハンガリー国内で広く賛同を得た[10]。翌日、ヨーゼフ・アウグスト大公は自身をハンガリーの摂政だと宣言し(8月23日までその地位を維持したが、辞任を強いられた)[11]、フリードリヒを首相に任命した。11月24日にはフサール・カーロイ英語版が後を継ぎ、数ヵ月後の王政復古まで首相と臨時大統領を務めた。

 
1919年11月16日、国民軍司令官としてブダペストに入城したホルティ・ミクローシュ提督。ホテル・ゲレールトの前で市の職員に出迎えられている。

11月、ルーマニア軍のすぐ後に続いて、軍人からなる過激な反共産主義権威主義政権がブダペストに入城した[12]。「白色テロ英語版」は、共産主義者社会主義者ユダヤ人、左翼の知識人、カーロイ政権クン政権の支持者など、将校が再確立を目指したハンガリーの伝統的な政治秩序を脅かす人々を裁判なしで投獄、拷問、処刑することにつながった[12]。処刑数は約5,000人と推定されている[12]。それに加え、約75,000人が投獄された[12][8]。特に、ハンガリーの右翼勢力とルーマニア人勢力はユダヤ人を報復対象とした[12]。結局、白色テロによって10万人近くが国外退去を強いられたが、そのほとんどは社会主義者、知識人、中流階級のユダヤ人であった[12]

1920年と1921年、ハンガリー国内は大混乱に陥った[12]。白色テロはユダヤ人や左翼を苦しめ続け、失業率とインフレ率は急上昇し、無一文のハンガリー難民が近隣諸国から国境を越えて押し寄せ、低迷する経済の負担となった[12]。政府は国民をほとんど救済しなかった[12]。1920年1月の総選挙はハンガリー政治史上初の秘密投票で行われ、反革命派と農民派が一院制国会の多数派を占めた[12]。保守的なキリスト教国民連合党英語版と、土地改革を主張する全国小作人・農業労働者党の二大政党が誕生した[12]

1920年2月29日[2]、国会はハンガリー王国を復活させて共和制を終わらせ、3月には国事詔書アウスグライヒの両方を無効とした[12]。国会は、民衆の混乱が収まるまで国王の選出を延期した[12]。そしてオーストリア=ハンガリー帝国の元提督ホルティ・ミクローシュ摂政となり[12] 、1944年までその職を務めた。

関連項目

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脚注

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注釈

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  1. ^ a b 国家元首代理として

出典

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  1. ^ Kollega Tarsoly, István, ed. (1995). "Magyarország". Révai nagy lexikona (ハンガリー語). Vol. 20. Budapest: Hasonmás Kiadó. pp. 595–597. ISBN 963-8318-70-8
  2. ^ a b Dr. Térfy, Gyula, ed (1921). “1920. évi I. törvénycikk az alkotmányosság helyreállításáról és az állami főhatalom gyakorlásának ideiglenes rendezéséről.” (ハンガリー語). Magyar törvénytár (Corpus Juris Hungarici): 1920. évi törvénycikkek. Budapest: Révai Testvérek Irodalmi Intézet Részvénytársaság. p. 3 
  3. ^ Minisztertanácsi jegyzőkönyvek: 1919. augusztus 8.” (ハンガリー語). DigitArchiv. p. 10. 5 February 2012閲覧。
  4. ^ Minisztertanácsi jegyzőkönyvek: 1919. augusztus 16.” (ハンガリー語). DigitArchiv. p. 12. 5 February 2012閲覧。
  5. ^ Romsics, Ignác (2004) (ハンガリー語). Magyarország története a XX. században. Budapest: Osiris Kiadó. p. 133. ISBN 963-389-590-1 
  6. ^ S. Balogh, Eva (Spring 1977). “Power Struggle in Hungary: Analysis in Post-war Domestic Politics August-November 1919”. Canadian-American Review of Hungarian Studies 4 (1): 7. http://epa.oszk.hu/01900/01994/00006/pdf/CARHS_1977_1_03-23.pdf. 
  7. ^ Bekény, István, ed. (1996). "A Horthy-korszak". Magyarország a XX. században: Politika és társadalom, hadtörténet, jogalkotás (ハンガリー語). Vol. 1. Szekszárd: Babits Kiadó. p. 49. ISBN 963-9015-08-3
  8. ^ a b Hungary Between The Wars”. A History of Modern Hungary: 1867-1994. 2022年7月閲覧。
  9. ^ Pölöskei, Ferenc; Gergely, Jenő; Izsák, Lajos (1995) (ハンガリー語). Magyarország története 1918–1990. Budapest: Korona Kiadó. pp. 32–33. ISBN 963-8153-55-5 
  10. ^ S. Balogh, Eva (Spring 1977). “Power Struggle in Hungary: Analysis in Post-war Domestic Politics August-November 1919”. Canadian-American Review of Hungarian Studies 4 (1): 6. http://epa.oszk.hu/01900/01994/00006/pdf/CARHS_1977_1_03-23.pdf. 
  11. ^ Die amtliche Meldung über den Rücktritt” (ドイツ語). Neue Freie Presse, Morgenblatt. p. 2 (1919年8月24日). 2022年7月閲覧。
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n Burant, Stephen R., ed. (1990). Hungary: a country study. Washington, D.C.: Federal Research Division, Library of Congress. p. 37. OCLC 311424250.   この記述には、アメリカ合衆国内でパブリックドメインとなっている記述を含む。