ハムマン (駆逐艦)
艦歴 | |
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起工: | 1938年1月17日 |
進水: | 1939年2月4日 |
就役: | 1939年8月11日 |
その後: | 1942年6月6日に戦没 |
性能諸元 | |
排水量: | 基準 1,570 トン、満載 2,211 トン |
全長: | 348 ft 3¼ in (106.15 m) |
全幅: | 36 ft 1 in (11 m) |
吃水: | 13 ft 4.5 in (4.07 m) |
機関: | ギアード・タービン 50,000 shp |
最大速: | 35ノット |
航続距離: | 3,660海里 (6,780 km) 20ノット(37km/h)時 |
乗員: | 士官10名、兵員182名 |
兵装: | 38口径5インチ砲4門 12.7mm機銃4基 21インチ魚雷発射管8門 爆雷軌条2基 |
ハムマン (USS Hammann, DD-412) は、アメリカ海軍の駆逐艦[1][2][3]。 シムス級駆逐艦の1隻。 艦名は第一次世界大戦で戦死し名誉勲章を受章したチャールズ・ハムマン少尉に因む。日本ではハマン[4][5]、ハンマン[6]と表記される場合もある。
1942年(昭和17年)6月6日、ハムマンはミッドウェー海戦において空母ヨークタウンを救援中、日本海軍潜水艦伊号第百六十八潜水艦の雷撃により轟沈した[7][8]。同時に被雷したヨークタウンも、翌日沈没した[5][9]。
艦歴
編集ハムマンは1938年1月17日にニュージャージー州カーニーのフェデラル・シップビルディング社で起工する。1939年2月4日にリリアン・ハムマンによって命名、進水し、1939年8月11日に艦長アーノルド・E・トゥルー中佐の指揮下就役した。就役後は東海岸沖で整調を行い、続く2年間は西海岸および東海岸での訓練、準備任務に従事した。
太平洋で
編集真珠湾攻撃時、ハムマンはアイスランドにあったが、燃料および物資補給のためバージニア州ノーフォークに急遽帰還し、1942年1月6日に太平洋に向けて出航した。パナマ運河を経由し1月22日にサンフランシスコに到着、2月25日にフレッチャー中将率いる第17任務部隊の一部として南太平洋に向けて出航した。
3月前半はニューカレドニアで訓練演習に参加し、任務部隊は27日に珊瑚海へ向けて出航した。ハムマンは航空母艦レキシントン (USS Lexington, CV-2) の護衛として同行し、4月20日にトンガタプ島に帰還した。任務部隊は4月27日に再び珊瑚海へ向かい、ツラギ島を攻撃する日本軍部隊と対峙した。
5月4日、空母ヨークタウンから発進した攻撃隊(のべ60機以上)はツラギ島の日本艦隊を攻撃、「巡洋艦3隻を含む14隻を撃沈もしくは大破」という大戦果を報告した(実際は、駆逐艦菊月・掃海艇2隻・輸送船1隻沈没)[10]。この時、米軍攻撃隊は3機の損害を出した[10]。 空母の護衛中にハムマンはガダルカナル島北方65kmで撃墜された戦闘機パイロット2名を救助した。ハムマンは全速力で航行し、夕暮時に海岸に到着、パラシュートを確認した。艦載艇が準備されたが寄せ波のため降ろすことができず、パイロットはボートからの綱を使って救助された。その後戦闘機の機体の破壊が試みられたが、海が荒れていたため不可能であった。ハムマンはレキシントンの護衛に戻り、その夜は同任務に従事した。
珊瑚海海戦
編集4日後の5月8日に珊瑚海海戦が行われた。緒戦は艦砲による砲撃と航空機の攻撃両方で始まった。MO機動部隊(瑞鶴、翔鶴)の雷撃機が攻撃する中、ハムマンは空母の護衛を行う。雷撃機が退くと同時に急降下爆撃機が現れ、ハムマンの右舷前方200mに爆弾を投下した。レキシントンは2発の魚雷を受け大きく損傷した。当初はコントロールできると考えられたものの、13:00に大爆発が生じ消火不能となる。レキシントンは放棄が決定され、本艦はモリス (USS Morris, DD-417) 、アンダーソン (USS Anderson, DD-411) などと共に、脱出者の救助に当たった[11]。駆逐艦はほぼ500名を救助し、「レディ・レックス」は5月8日の夜にフェルプス (USS Phelps, DD-360) の魚雷によって海没処分された[12]。
ミッドウェー海戦
編集珊瑚海海戦により日本軍の南東への進出を阻むことができたが、新たな脅威に対してニミッツ提督はハムマンに対して北方への急行を命じた。ハムマンは任務部隊と共に真珠湾に向かい5月27日に到着する。修理の後5月30日に出航しミッドウェー島に向かった。
ミッドウェー海戦では6月4日(日本側記録6月5日)の戦闘で、ハムマンはヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) の護衛を担当した。「日本軍大勝利」の大本営発表とは裏腹に[13]、ミッドウェー海戦は米軍の勝利で終わった[14]。しかしヨークタウンは空母飛龍攻撃隊の攻撃により2本の魚雷が命中して大破、その日の午後に放棄が命じられた[15]。ハムマンはヨークタウンの生存者を救助したが、その中には艦長のバックマスター大佐も含まれた。その後生存者は大型艦に移乗した。漂流するヨークタウンには、駆逐艦ヒューズがつきそった[4]。
翌朝ヨークタウンの維持と牽引が試みられ、バックマスター艦長を含めて170名がヨークタウンに戻った[4]。ハムマンはダメージ・コントロールのためヨークタウンと併走し、消火用ホースと水、動力を供給した[4]。ハムマンはヨークタウンの燃料タンクに消火ホースで注水し、空母の傾斜は水平になった[4]。掃海艇ヴィレオがヨークタウンの曳航を開始し、同艦は約3ノットで真珠湾への移動を開始した[4]。
この時、「漂流空母を撃沈せよ」との命令を受けた日本海軍の伊号第168潜水艦(潜水艦長田辺彌八少佐)が接近してきた[5][16]。無音航行で護衛艦艇の警戒を潜りぬけた伊168潜水艦は、日本時間0937に潜望鏡をあげて距離500mにヨークタウンを発見する[5]。距離をかせいだあと1005に距離900mで魚雷4発を発射[5][17]。魚雷1本がハムマンの右舷中央部に命中した[18]。ハムマンは大爆発と共に竜骨が折れ、2つに分断されて轟沈した[18]。伊168号はハムマンがいたことも、ハムマンを撃沈した事も認識しておらず、戦後になって事実を知った田辺中佐(当時、伊168艦長)は「儲けものをしたわいと思った」と回想している[19]。
ハムマンにとって不幸なことに、艦尾の爆雷は発火準備状態だった[18]。艦後部が沈むと同時に爆雷の水中爆発が起こり、海上に投げ出されていた多数の乗組員が死亡した[18]。乗組員定員251名のうち、81名戦死と記録されている[18]。生存者はベンハム (USS Benham, DD-397) とバルチ (USS Balch, DD-363) によって救助された。
なお、ヨークタウンには右舷に魚雷2本が命中した[20]。翌日朝、同艦は艦尾から沈没した[16][20]。伊168は爆雷攻撃を受けて損傷したが[21]、6月19日に呉軍港に帰投することが出来た[5]。 ハムマンは太平洋戦争における重要な2つの海戦に参加後、失われた。艦長のトゥルー中佐は両海戦における功績で海軍十字章および殊勲章を受章した。ハムマンは第二次世界大戦の戦功で2個の従軍星章を受章した。
ハムマンのプラスチックモデルキット
編集- プラスチックモデル組み立てキット。ウォーターラインシリーズ[22]。
脚注
編集- ^ 草鹿龍之介 1979, pp. 147–148「結果」
- ^ 太平洋戦争と十人の提督(上)145-146頁「伊一六八の活躍」
- ^ #大東亜戦争記録画報続コマ59(原本107頁)「米航空母艦ヨークタウンの最期 昭和十七年六月七日ミツドウエー島沖の海戰で無敵帝國海軍により撃沈された米航空母艦一萬九千九百トンのヨークタウン沈没の目撃記事を掲載した最近の英紙デイリー・ヘラルドを入手した。
ヨークタウン護衛の一巡洋艦に乗組んでゐた聯合通信記者ウエンデル・ウエブは米空母を襲撃した日本海軍航空隊の攻撃力に就いてなまなましい記事を書いてゐる。聯合通信員の記事の内容は次の如きもので、わが海鷲の威力と敵の狼狽した様子がありありと描かられてゐる。
「日本空軍の攻撃は全く豫想外の突撃であつた、吾々が日本機を見た時既にヨークタウンは火を發してゐた。日本機はヨークタウンに止めを刺すべく雷撃機と急降下爆撃機で襲撃して來た、射程内に入ると全艦隊は凄しい騒音で一齋に防空砲を發射し、ヨークタウンの各砲も發砲した。日本の攻撃機は彈幕を通じて急降下を試みわが戰闘員はそれを攻撃せんとしたが既に遅かった、ヨークタウンはひどく傾斜して傷ついた巨鯨の如く浮かんでゐたがまだ曳航して行く見込みがあつたので驅逐艦ハムマンは危険を冒してヨークタウンに近づき、これを曳航せんとしたが、いつの間にか忍び寄つてゐた日本の潜水艦が魚雷攻撃をやり、ヨークタウンとハムマンに命中して止めを刺した。斯くてヨークタウンは終夜漂つてゐたが漸次浸水して翌朝沈没したのである。」 」 - ^ a b c d e f #トール2013、下324-325頁「伊号第一六八潜水艦が一矢むくいる」
- ^ a b c d e f 戦史叢書98巻150-152頁「ヨークタウンの撃沈」
- ^ 写真太平洋戦争3巻239-240頁「▼沈みゆく駆逐艦ハンマン」
- ^ 写真太平洋戦争3巻240頁(伊168潜写真および解説)
- ^ #大東亜戦争記録画報続コマ59(原本107頁)「英紙掲載の敗戰寫眞 米空母ヨークタウンの最期と海上をのたうつ撃沈英艦乗組員」
- ^ 写真太平洋戦争3巻239頁(ヨークタウン沈没写真および解説)
- ^ a b #トール2013、下142-143頁
- ^ #トール2013、下184-185頁
- ^ #トール2013、下188-189頁
- ^ #大東亜戦争記録画報前コマ90(原本171頁)「東北太平洋に於ける大勝の意義」
- ^ 太平洋戦争と十人の提督(上)146-147頁「作戦の中止」
- ^ #トール2013、下304頁
- ^ a b 写真太平洋戦争3巻175-176頁「避退戦」
- ^ #佐藤、艦長(文庫)256-258頁「三百六十度の敵前回頭」
- ^ a b c d e #トール2013、下326-327頁
- ^ #佐藤、艦長(文庫)259-260頁
- ^ a b #トール2013、下327-328頁
- ^ #証言ミッドウェー海戦(文庫)238-239頁「忍耐がもたらした勝利」
- ^ 田宮模型ホームページ [1]
参考文献
編集- 奥宮正武「2 ミッドウェー・アリューシャン作戦」『太平洋戦争と十人の提督(上)』朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ〉、1983年8月。ISBN 4-257-17030-1。
- 草鹿龍之介「第二章 運命決す五分間の遅速」『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1979年1月。ISBN 4-87538-039-9。
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社〈光人社NF文庫〉、1993年5月。ISBN 47698-2009-7。
- (250-264頁)『決死の覚悟』<潜水艦「伊一六八」艦長・田辺彌八中佐の証言>
- イアン・トール著、村上和久訳「第十二章 決戦のミッドウェイ」『太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 下』文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376430-6。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。
- 橋本敏男、田辺弥八ほか『証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!』光人社〈光人社NF文庫〉、1999年10月(原著1992年)。ISBN 4-7698-2249-9。
- (227-239頁)元伊号一六八潜水艦長・海軍中佐田辺彌八『われ米空母ヨークタウンを撃沈せり!』
- 雑誌「丸」編集部『写真 太平洋戦争<第三巻> ドーリットル空襲/珊瑚海海戦/ミッドウェー海戦』光人社〈光人社NF文庫〉、1995年2月。ISBN 4-7698-2073-9。
- (194-198頁)伊達久『ミッドウェー海戦における潜水艦作戦』
- 吉田俊雄『造艦テクノロジーの戦い 科学技術の頂点に立った連合艦隊軍艦物語』光人社NF文庫、1995年11月(原著1989年)。ISBN 4-7698-2103-4。
- (272-300頁)『14 男子の本懐 ―伊号第一六八潜水艦の殊勲』
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 英文大阪毎日学習号編輯局 編『大東亜戦争記録画報. 前篇』大阪出版社、1943年6月 。
- 英文大阪毎日学習号編輯局 編『大東亜戦争記録画報. 後篇』大阪出版社、1943年6月 。
- 英文大阪毎日学習号編輯局 編『大東亜戦争記録画報. 續篇』大阪出版社、1943年6月 。