ノーンチャーン郡
座標: 北緯15度23分29秒 東経99度50分29秒 / 北緯15.39139度 東経99.84139度
ノーンチャーン郡(ノーンチャーンぐん)はタイ北部・ウタイターニー県にある郡(アムプー)である。
ノーンチャン郡 | |
---|---|
ノーンチャン郡の位置 | |
情報 | |
タイ語名 | อำเภอหนองฉาง |
県 | ウタイターニー県 |
地理番号 | 6104 |
郵便番号 | 61110 |
統計 | |
面積 | 341.2 km2 |
人口 | 44,825 人 (2005年) |
人口密度 | 131.4 人/km2 |
行政 |
名称
編集ノーンチャーンとは、「倉の池」という意味である。
歴史
編集ノーンチャーンの歴史は古くドヴァーラヴァティー時代からあったものと推測されている。その後、スコータイ王朝時代にターオ・マハープロムという君主が入植しムアン・ウタイと呼ばれる都市をつくった。これが、現在のウタイターニー県の原型である。
その後、アユタヤ王朝時代には畿内の第4級国になり、オークヤー・ピチャイスントーンと呼ばれる官吏が治める国となった[1]。その後、アユタヤ王朝時代には、ラーマ1世の父親などの人材を輩出している。
1767年、アユタヤがビルマの軍門に下ると、ムアン・ウタイの住人はビルマの捕虜にとられた。そこで、救国の王タークシンが、ムアン・ウタイを再建し、ルワン・ソーラウィチットを国主にした。このルワン・ソーラウィチットは後にチャクリー王朝下でチャオプラヤー・プラクラン (ホン)となり『サームコック』や『ラーチャーティラート』などの名作を残す人物である。
ラーマ3世(ナンクラオ)はスア・パヤックウィチエンをムアン・ウタイの国主として派遣するが、この人物は、当時チャイナートの管轄下にあったサケークラン(現・ウタイターニー)に居した。このため、ウタイターニーの中心がサケークランに移り、後にサケークランはウタイターニーの県の管轄に移り、県庁所在地となった。このため、ムアン・ウタイは重要性が下がる。1902年にはムアン・ウタイからノーンチャーン郡へと名を変えた。
地理
編集郡はチャオプラヤー川の支流が形成した平地にあるが、郡東部はやや山がちである。
交通は国道333号線が東から南西に通っており、東はウタイターニー、南はウートーンに通じている。国道3013号線が北に延びており、ラートヤーオとつながっている。また、3438号線が北西に延びておりメープーンとつながっている。
経済
編集郡内の主要な産業は農業であり、主要な産物は米、トウモロコシである。
行政区分
編集郡は10のタムボンに分かれさらにその下位に95の村(ムーバーン)がある。自治体(テーサバーン)が設置されており以下のようになっている。
- テーサバーンタムボン・ノーンチャーン・・・タムボン・ノーンチャーン、タムボン・ノーンスワンの一部
- テーサバーンタムボン・カオバーンクレーク・・・タムボン・カオバーンクレークの全体
以下は郡内のタムボンの一覧である。
- タムボン・ノーンチャーン・・・ตำบลหนองฉาง
- タムボン・ノーンヤーン・・・ตำบลหนองยาง
- タムボン・ノーンナーンヌワン・・・ตำบลหนองนางนวล
- タムボン・ノーンスワン・・・ตำบลหนองสรวง
- タムボン・バーンカオ・・・ตำบลบ้านเก่า
- タムボン・ウタイカオ・・・ตำบลอุทัยเก่า
- タムボン・トゥンポー・・・ตำบลทุ่งโพ
- タムボン・トゥンポン・・・ตำบลทุ่งพง
- タムボン・カオバーンクレーク・・・ตำบลเขาบางแกรก
- タムボン・カオクワーントーン・・・ตำบลเขากวางทอง
脚注
編集- ^ 石井米雄 「アユタヤ王朝の統治範囲を示す『三印法典』中の三テキスト」 『タイ近世研究序説』 岩波書店、1999年、pp.127-165, ISBN 9784000012898