ノート:パラドックス
「ヘンペルのパラドックス」もお仲間に加えてやってくださいませ m(_ _)m。Kadzuwo 16:33 2004年3月2日 (UTC)
「投票行動のパラドックス」「寛容のパラドックス」「情報化社会のパラドックス」これらはgoogleで検索してもパラドックスらしい記事が出てこなかったのですが、当記事に本当にふさわしいのでしょうか?2005年10月23日 (日) 08:14 (UTC)
いくつかのパラドックスを本文から消しました
編集この記事のメインの執筆者の一人です。 リストからパラドックスをいくつか削りました。 いずれも実在性ないし正確性に疑問を感じるからです。(失礼) 復活する場合は証拠となる文献を明示してくださると幸いです。
219.35.139.100 2008年1月25日 (金) 20:56 (UTC)
ネット社会でのパラドックス
編集下記の「ネット社会でのパラドックス」を消しました。
- たとえば、あるソーシャルネットワーキングサービス (SNS) で、IDを二つ獲得し、それぞれ別人格として機能させていると仮定すると、自己の友人の友人が自己という関係が成立してしまう。
- すなわち、リアル社会ではありえない関係性がネット社会ではあり得る。
- 前提として、自己を2つ所有することができるという非現実性が、ネット社会におけるパラドックスの日常化につながる恐れがあると、一部の専門家の話題になっている。
消した理由は次の通りです:
- どうみてもパラドックスではない。
- googleを引いても全くひっかからない。
単に私の無知だったらすみません。
219.35.139.100 2007年5月25日 (金) 15:42 (UTC)
「タイムマシンのパラドックス」、「情報社会のパラドックス」、「願い事のパラドックス」
編集3つともを本文からコメントアウトしました。 どうも実在性ないし正確性に疑問を感じるからです。(失礼)
- いずれも、googleで検索してもほとんど引っかからない。
- 「情報社会のパラドックス」と「願い事のパラドックス」には解説がない。
「タイムマシンのパラドックス」には解説がありましたが、本当にこれを「タイムマシンのパラドックス」と呼ぶのでしょうか? あと、検索したら2chで「願い事のパラドックス」=「1度だけ願いをかなえてあげると言われて「願いを2度にしてくれ」と願う」という趣旨の解説を見つけましたが、 「願い事のパラドックス」という呼び名は定着したものなのでしょうか?
数学は、、、?
編集- 数学はその発展の中で、「正しそうに見える推論」の中から「本当に正しい推論」を寄り分けてきた。こうしてまず最初に整数や幾何図形のような対象が数学で扱えるようになったが、その後集合や無限のような深遠な対象を取り扱ったり、自己言及のような複雑な推論を扱ったりするようになると、どれが「本当に正しい推論」でどれが「正しそうに見えるが実は間違っている推論」なのかが分からなくなってしまった。
概要が突然、数学は、ではじまっているのですが、パラドックスってそもそも数学用語なのですか?そして、数学史の中に、分からなくなってしまった例ってあるのですか???--H335 2008年11月1日 (土) 11:20 (UTC)
- したがって、パラドックスは単なる矛盾とは区別される。
なににしたがっているのですか???--H335 2008年11月1日 (土) 11:23 (UTC)
論理の道筋は通ってますけどね。定義段階では数学以外の分野ではあいまいに扱われていること、数学ではより厳密な内容があることが示され、これによって以下に数学に関する内容が一応示されてます。「したがって」も、一応その前の段落を受けています。多少ややこしくなってはいますが。--Ks 2008年11月1日 (土) 16:08 (UTC)
- 数学では多くの場合、正しそうに見える仮定と正しそうに見える推論から正しくなさそうな結論が得られる事を指す。
- 数学以外の分野では~、文脈により様々な意味に用いられる。
- 数学はその発展の中で~分からなくなってしまった。
- したがって、パラドックスは単なる矛盾とは区別される。
まだ理解していないのですが、ご指摘の前の段落というのは、定義文?のことですか、それとも3番目のことですか?
まず、数学で仮定を用いることはまれです。背理法などの論法のなかで用いる場合以外は、定理をもちいます。定理は証明された真なる命題をいうので、通常は「分からなくなってしまった」りしません。重要な定理が誤りであると証明されずに長期間放置された例はありませんし、数学者が仮定#数学における仮説(仮説をもつ)するときはただちに証明したい動機をもちます。仮説はいつでも仮説だと宣言するので「発展の中で分からなくなってしまった」りすることはありません。これが正確性をたてた理由です。
もっとも、数学ではなく工学的には証明されていない数学を用いることがあります。たとえば、多くの関数はフーリエ変換可能である、と仮定したり、微分可能であるということを証明せずに用いたりします。それでも「発展の中で分からなくなってしまった」りすることはありません。これは数学的な証明がされていないということがいつも意識されるからです。
また「したがって~区別される」という場合、「単なる矛盾とは~である」と「パラドックスとは~である」という二つの定義文が必要ですが、該当する箇所がありません。また、パラドックスの定義も「多くの場合」や「様々な意味」としており、「したがって~区別される」というために必要な論理構造がみあたりません。--H335 2008年11月2日 (日) 01:39 (UTC)
- 「まず、数学で仮定を用いることはまれです。」のひとことでH335氏が数学に縁の無い人物であることがわかります。そしてこの誤解によって書かれた二つの段落は意味の無いものです。--以上の署名のないコメントは、218.251.72.169(会話/Whois)さんが 2008年11月2日 (日) 09:07(UTC) に投稿したものです(mizusumashiによる付記)。
- 推論の最小単位は前提と結論からなります。これを複数積み上げることで数学の一分野はできあがります。その最初の前提が定理である場合と証明されていない仮説である場合があるならば、定理であることの方が多く、仮説である場合はまれだと思います。
- 数学の一分野の前提が定理であることが少なく、仮説である場合が多いならば、あなたのいっていることは正しいです。実際そうですか?もしそうなら、証明結果が数学全域と関わるような重要性の高い未解決問題が、証明された定理と同程度以上に沢山あり、現在の数学の多くの部分が未解決問題の上に成り立っていることになります。これは数学に縁のない者にも明らかなパラドックスです。--H335 2008年11月2日 (日) 23:11 (UTC)
- 仮説と仮定を混同していることからH335氏が数学に縁の無い人物であることが改めて確認できます。そして、H335氏が数学というものに対して大きな誤解をしているということもハッキリしています(H335氏の文章を見たままに受け取るならば、むしろH335氏が「工学屋が用いる“証明されていない数学”」と呼ぶものが通常の数学です)。数学は定理を前提とはしません、公理と呼ばれるいくつかの仮定と与えられた推論規則のみを前提とします。数学は物理や化学のようなものとは違うのです。そういう「形式的」な数学にあって「なんとなく正しそうな命題を公理において正しい推論を行ったのに結果がそれほど明らかなものではなくむしろ何か疑わしい」というまったく「感覚的」な部分を以って「逆理」というものが生まれるので、なかなか論理的に説明することは難しいのが実情でしょう。--以上の署名のないコメントは、218.251.72.222(会話/Whois)さんが 2008年11月3日 (月) 01:13(UTC) に投稿したものです(mizusumashiによる付記)。
- 私は意図して仮定ではなく、仮説という語を区別して用いています。「工学屋が用いる“証明されていない数学”」と呼ぶものが通常の数学というあなたの観点は、偏っています。これはあなたやあなたの所属するグループにとっての通常でしかありません。数学は本来学問として成立しているものなので、あなたの立場ならば「数学の発展」という表現ではなく、「数学の応用範囲の発展」と表現しなければなりません。
- 公理を前提として定理は導かれます。「なんとなく正しそうな命題を公理において正しい推論を行ったのに結果がそれほど明らかなものではなくむしろ何か疑わしい」ということはなく、通常、公理は真であるいう前提のもとに、推論を行い、証明を与えます。公理が偽であった場合は単に公理が偽であったという事実が決定するだけです。「発展の中で分からなくなってしまった」りすることはありません。
- 私が数学に縁の無い人物であると仮定するのは自由ですが、その確からしさを強調していくことが百科事典の編纂に役立ちますか?それよりも数学に縁の無い人物にも分かるように記事を改善していってくだるほうが役に立ちます。「感覚的」な部分を以って「逆理」というものが生まれるとされるのなら、その感覚的な部分を検証可能な形でまとめていただければ興味深い記事になるでしょう。--H335 2008年11月3日 (月) 03:43 (UTC)
- H335氏が数学について何も知らないことを確認しているのは、H335氏が「数学とはこういうものである」と繰り返し述べていることに信憑性が無いということをはっきりさせるためです。
- 数学で言う(そして本文やノートで他の方も使っている)「仮定」は「仮説」とは異なります。ゆえに、H335氏が何度も「仮説の上に数学が成り立つことは少ない」と繰り返しても、話がまったく進みません。
- H335氏は純粋数学の本、教科書でもいいですが読んだことがあるでしょうか。例えば解析の本であれば、「函数 f が微分可能ならば~である」のような仮定から結論を導く形式の文章がたくさん並んでいます。H335氏のいう「工学屋の“証明されていない数学”」や「あなたやあなたの所属するグループにとっての通常」は、学問としての数学の姿そのものです。このズレのもとは、H335氏が書いた内容が氏の意図するものを表していないか、もしくはH335氏自身の数学に対する考え方が偏っているかのどちらかなのでしょう。私は書いてある文字通りに受け取りましたから、氏が自分の考えを文字にできていないのであれば話がずれるのも当然ですね。
- 「「なんとなく正しそうな命題を公理において正しい推論を行ったのに結果がそれほど明らかなものではなくむしろ何か疑わしい」ということはなく」は数学の形式的手続きについて述べているのかもしれませんが、「パラドックス」というのは手続き的に正しいのに奇妙な結論に至るという「形式とは無関係の人間の感覚的な気持ち悪さ」をいうものであるので、ずっと話がずれたままです。たとえばZFに選択公理を付け加えたZFCは「なんとなく正しそうな命題」を集めて前提に置き通常の数学がその中できちんと展開できるようにしたものですが、バナッハ=タルスキーのパラドックスなどの、通常の感覚では妙な感じのする定理が導けます。
- ラッセルのパラドックスなどはコレとは異なる意味で「パラドックス」の語が用いられています。こちらは素朴集合論の公理系がめんどくさいタイプの自己言及を許してしまうから発生します。
- いま二つの意味でのパラドクスがあると説明しました。「発展の中で分らなくなる」というのは、これらの区別が本当にできるのかわからなくなるということです。集合論の研究が進むにつれ、ある公理系をずっと採用してきたけれどももっと他に相応しい公理系があるかもしれない(たとえばZFCではなくZFに弱い形の選択公理をつけくわえることにしようとか)というようなことがだんだんと出てくるのですが、このときある公理系で証明できた命題が、他の公理系では真偽が決定できないものになったり、命題ではなくなったりすることが起きます。そうやっていくなかで、もしあるパラドックスが回避されたり、あらたに証明される事実となったりしたとき、そのパラドクスは公理系が“不備”であることによるものかそれとも単に受け入れがたい結果でしかない事実であるのかといったことか、わからなくなります。
- 数学というものは、物理や化学のようなものとは異なり、絶対不変の枠組みというものを持ちません。ある枠組みでどれほどの事が言えたとしても、他の枠組みに移ればそれらの内容は保証されません。そして、数学的に見ればZFやBGなどの標準的な公理系も「それ自体もそれから出てくる結果もだいたい尤もらしいものになっている」という理由で恣意的に選び取られたものに過ぎないのです。どんな公理系が本当の意味で正しい公理系であるのかということを決定できる人はいません。
- わたしはこのパラドックスの記事の内容はわかりにくく、できればよい方向に変えたいと思ってコメントを寄せたのですが、H335氏があまりに意味不明の主張をなさるので、H335氏の意図を測りかねていたのです。ここ何度かのやり取りでわかったことは、H335氏の相手をしていても時間の無駄になるだけなのではないかということです。--以上の署名のないコメントは、218.251.72.180(会話/Whois)さんが 2008年11月3日 (月) 06:18(UTC) に投稿したものです(mizusumashiによる付記)。
数学分野のノートページにはいつも普通に会話できない赤ユーザーが出てくるのですが、これは基本的にまずもってLem氏と考えてOKです。まあそれは置いときまして、確かにこの記事はパラドックスという言葉を20世紀前半から盛んになってきた数学の基礎に関する議論、これ「のみ」を念頭に置いて解説を始めている、という意味ではちょっと狭い説明の仕方となってしまっているとは思います。つまり例えば『どれが「本当に正しい推論」でどれが「正しそうに見えるが実は間違っている推論」なのかが分からなくなってしまった。』という文がありますが、この文も論理学的な意味での妥当性云々の話をしているのではなく、おそらく推論規則としての排中律を拒否する直観主義のようなスタイルについての議論、そういったものを念頭において書かれたものだと思います。以上簡単ながら基本的な点だけ。--was a bee 2008年11月3日 (月) 14:09 (UTC)
- 三つ辞典にあたったところ、パラドックスの定義はさまざまでした。
style="width:「逆理」日本数学会編『岩波 数学辞典 第4版』岩波書店、2007年(ISBN 978-4-00-080309-0);vertical-align:top;color:#B2B7F2;font-size:35px;font-family:'Times New Roman',serif;font-weight:bold;text-align:left;padding:10px 10px;" | 「 | 一般に容認される前提から,反駁しがたい推論によって,一般に容認し難い結論を導く論説を逆理(パラドックスまたは逆説)という.一見正しそうでも,よく考えれば間違った前提や欠陥のある推論を用いている場合は虚偽(fallacy, paraligism)とい呼ぶべきだが,これも広い意味では逆理に含められる.
日常感覚的に理解し難い事実を導く科学的(数学的)推論もしばしば逆理といわれる.バナッハ-タルスキの逆理はその好例である〔…〕.このようなものを擬似逆理であるとして,論理的な矛盾を導く二律背反(antinomy)を真性の逆理とする立場がある一方で,二律背反は単に矛盾であって逆理でないという見方もある〔…〕. |
style="width:「逆理」日本数学会編『岩波 数学辞典 第4版』岩波書店、2007年(ISBN 978-4-00-080309-0);vertical-align:bottom;color:#B2B7F2;font-size:36px;font-family:'Times New Roman',serif;font-weight:bold;text-align:right;padding:10px 10px;" | 」 |
style="width:内井惣七「パラドックス」『岩波 哲学・思想辞典』岩波書店、1998年(ISBN 978-4-0008-0089-1);vertical-align:top;color:#B2B7F2;font-size:35px;font-family:'Times New Roman',serif;font-weight:bold;text-align:left;padding:10px 10px;" | 「 | 言葉のもともとの意味では,〈パラドックス〉とは一般に受け入れられている見解に反する命題(ギリシア語でparadoxa)という.論理学でこの言葉を厳密な意味で用いるときは,証明されるはずのない矛盾命題が,妥当な推論によって,あるいは少なくとも一見妥当な推論によって導かれることを〈パラドックス〉と呼ぶ. | style="width:内井惣七「パラドックス」『岩波 哲学・思想辞典』岩波書店、1998年(ISBN 978-4-0008-0089-1);vertical-align:bottom;color:#B2B7F2;font-size:36px;font-family:'Times New Roman',serif;font-weight:bold;text-align:right;padding:10px 10px;" | 」 |
「 | 常識的見解に矛盾するように見える見解,あるいは真理に矛盾するように見えて,実はそうではない説. | 」 |
- 現在のパラドックスの内容は全体として『数学辞典』に近いものの、「概要」節では『数学辞典』では両説紹介されているうちの一方だけを断定的に書き、『哲学・思想辞典』とは矛盾するとは言い切れないもののかなり違った方向の説明となっており、『数学入門辞典』の「真理に矛盾するように見えて,実はそうではない説」にそうようなニュアンスも感じます。
- 以下、私個人の意見。
- 項目「パラドックス」の『どれが「本当に正しい推論」でどれが「正しそうに見えるが実は間違っている推論」なのかが分からなくなってしまった』という記述自体は、20世紀前半の数学の危機、つまり数学とは何か、公理とは何か、推論とは何かということが素朴には理解できなくなったという状況を背景として、ラッセルのパラドックスなどの役割を説明するものとして理解できます。そして、その延長上でなら、『パラドックスはこのように、仮定、推論、定義等がよく理解されていない状況で発生してしまうものである』という記述も理解できるのではないかとは思います(ホイッグ史観的な表現だとは感じますが)。
- しかし、その後に続く、同じ節の嘘つきパラドックスを題材に説明する第二段落は、非常に素朴で視野の狭い説明になっているように感じます。嘘つきパラドックスの定義が明確でないというのであれば、より明確な自己言及矛盾となる文を作ることはできますし(「この文は偽である」)、ラッセルのパラドックスも定義が明確でないゆえに生じたとはいえないでしょう(「定義が明確でない」というのを非構成的なという意味に理解するならともかく)。そして、第二段落からひるがえって、前段落の『パラドックスはこのように、仮定、推論、定義等がよく理解されていない状況で発生してしまうものである』を読むと、数学の危機を背景とした説明というよりは、同様の素朴で視野の狭い説明なのではないかという印象を持ちます。また、印象論で申し訳ありませんが、第二段落は、引用符の使い方も適切ではなく、その点からもあまり信用できない印象を持ちます(こういう引用符の使い方は、私もノートページではしますが)。
- 結論として、第二段落は除去してしまっても良いでしょうし、第一段落のミスリードを起こしているように思える『パラドックスはこのように、仮定、推論、定義等がよく理解されていない状況で発生してしまうものである』も除去してしまって良いように思います。--mizusumashi(月間感謝賞を応援します) 2008年11月3日 (月) 16:18 (UTC)
ほおっておかれているようなので、ノートの議論を参考にして、本文を以下のように編集してみました。
- mizusumashiさんが挙げてくださった辞書による定義を本文に追加
- 概要の部分に書かれているのは数学の事のみなので、節の名前を「数学における概要」に変更
- ノートの議論から、正確性テンプレよりも精度テンプレが妥当と判断
- 議論になっているのは概要の部分なので、テンプレを該当箇所に移動
220.106.48.71 2009年1月2日 (金) 10:40 (UTC)
「例外のパラドックス」は単なる偽命題なので、削除すべきです。
ジャパニーズパラドックスの内容を変更しました
編集「世界一の長寿国であること」の出典元はいずれもリンク切れになっていますが、「ジャパニーズパラドックス」の本質は、「喫煙率が高いにも関わらず心筋梗塞発症率が低いこと」であって、世界一の長寿国であることはパラドックスとは直接関係ありません。したがって、リンク修復はせず当該記述ごと除去しました。また、具体的な喫煙率の数字も、出典がない(除去したリンク先には書かれていたのかもしれませんが)上に、出典があったとしてもデータとしても古すぎるのでこれも除去しました。肺癌と動脈硬化についても出典元には書かれていないのでこれも除去しました。--Loasa(会話) 2017年8月13日 (日) 14:43 (UTC)
冒頭の構造図に疑問
編集自己言及のパラドックスのような解決不可能なパラドックスの存在を無視しています--219.198.206.123 2018年5月8日 (火) 01:01 (UTC)
西田幾多郎哲学への言及について
編集特別:固定リンク/83967354および特別:固定リンク/83967265についてですが、「東洋人にとって特に重要」であることだけを記述されても、なぜ/どのように重要なのかが分からず現状不親切な文面である上に、出典も書かれていないため検証のしようがありません。
また、実際にパラドックスという項目を扱うにあたり実際に重要であるというならば、前後の文脈も勘案すると小節1個分くらいには内容が必要になるのではと思料します。つまり、現状では内容が著しく不足しているまたは完全に文脈から浮いた文章になってしまっています。
私は哲学分野には詳しくないので、どなたか加筆または修正していただければと思います。--Merliborn(会話) 2021年6月11日 (金) 16:40 (UTC)