ナミュール包囲戦 (1746年)

ナミュール包囲戦(ナミュールほういせん、フランス語: Siège de Namur)は、オーストリア継承戦争中の1746年9月、フランス王国軍がオーストリア領ネーデルラントナミュールを包囲、占領した戦闘。

ナミュール包囲戦

ナミュール要塞の地図、1745年作。
戦争オーストリア継承戦争
年月日1746年9月6日 - 9月30日
場所オーストリア領ネーデルラントナミュール
結果:フランスの勝利
交戦勢力
フランス王国の旗 フランス王国 ハプスブルク帝国 ハプスブルク君主国
ネーデルラント連邦共和国の旗 ネーデルラント連邦共和国
指導者・指揮官
フランス王国の旗 モーリス・ド・サックス ネーデルラント連邦共和国の旗 コリヤール伯爵(Colyar
ネーデルラント連邦共和国の旗 クロンメリン将軍(Crommelin
戦力
100,000 7,000

経過

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フランス王国プロイセン王国スペイン王国バイエルン選帝侯領はほぼ同時にオーストリアのドイツとイタリアにおける領地を攻撃した。ネーデルラントははじめ侵攻を免れたが、1745年にモーリス・ド・サックス元帥がフランス軍10万を率いてオーストリア領ネーデルラントに侵攻した。フランス軍は翌年にシャルルロワを落とし、続いて1746年9月のはじめにクレルモン伯爵率いるフランス軍がナミュールを包囲した。

ナミュールの駐留軍はオランダの11個大隊とオーストリアの2個大隊で計7千人であり、指揮官はコリヤール伯爵だったが、彼は老齢と病気を理由に引退、クロンメリン将軍に指揮権を渡したのち9月13日にナミュールを去った。

フランス軍はナミュールのサン=ニコラ門の側へ攻撃を仕掛けた。フランス軍はまずサン=アントワーヌとレスピノワ(l'Espinois)要塞の向こうに砲台を2門設置し、続いて11日の夜に砲撃を開始した。このときにはすでにオランダ軍400人が捕虜になっていた。

18日の夜までに、フランス軍はコクレー(Coquelet)とジャンベ(Jambes)要塞を除いてナミュール城の周りにある防御工事を全て占領した。19日の夜明けにマース川の橋の柱が3本壊されたため駐留軍はジャンベ要塞を放棄、朝7時にコクレー要塞が投降、11時にはナミュールの町も投降した。

駐留軍は脱走者が続出しつつも城塞にこもり、一方フランス軍は城塞の包囲に取り掛かった。ドンジョン(Donjon)、テレ・ネーヴェ(Terre Neuve)、オランジェ(Orange)要塞を攻撃するための砲台が建てられ、24日の午後に砲撃が開始された。砲弾の1枚が火薬倉庫に直撃し、それによりおこった火事はすぐに広がり、近くのサン=ピエール教会などに延焼した。

数日後にはカム要塞(Camus)などが占領され、城塞とオランジェ要塞の壁にも多くの穴があけられた。フランス軍が最後の強襲を準備していると、駐留軍は30日の18時に投降した。

駐留軍はそのまま捕虜になった。1748年10月のアーヘンの和約によりネーデルラントがオーストリアへ返還されることが決まると、フランス軍は1749年2月10日にナミュールから退去した。

参考文献

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  • Jules Borgnet, Promenades dans Namur, t. 1, Namur, A. Wesmael-Legros, 1859, p. 49.