ドンム
ドンム (Domme、オック語:Doma[1])は、フランス、ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏、ドルドーニュ県のコミューン。
Domme | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏 |
県 (département) | ドルドーニュ県 |
郡 (arrondissement) | サルラ=ラ=カネダ郡 |
小郡 (canton) | ヴァレ・ドルドーニュ小郡 |
INSEEコード | 24152 |
郵便番号 | 24250 |
市長(任期) |
ジャン=クロード・カサニョル (2014年 - 2020年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Communauté de communes de Domme-Villefranche du Périgord |
人口動態 | |
人口 |
923人 (2015年) |
人口密度 | 37人/km2 |
住民の呼称 | Dommois |
地理 | |
座標 | 北緯44度48分08秒 東経1度12分52秒 / 北緯44.8022222222度 東経1.21444444444度座標: 北緯44度48分08秒 東経1度12分52秒 / 北緯44.8022222222度 東経1.21444444444度 |
標高 |
平均:?m 最低:60m 最高:303m |
面積 | 24.91km2 (2 491ha) |
公式サイト | www.sarlat.fr |
地理
編集ドンムは、ドルドーニュ川に沿った標高250mの崖の上にあるバスティッドである。崖の形状である台形に影響を与えていない、長方形のバスティードである。まちを取り囲む要塞は、住民の必要性に応じて採用されたものである。
歴史
編集ドンムは、ドルドーニュ川の谷を見下ろす岩がちな露頭の上にある。アルビジョア十字軍の際の1281年にフィリップ3世によって建設された。まちは独自の硬貨を鋳造する特権も得ていた。
テンプル騎士団迫害の時代だった1307年、まちには70人ほどの騎士たちが投獄されていた。彼らはペリグー、カオール、ロデーズ、ブールジュ、リモージュ、クレルモン、アングレーム、ポワティエの各司教座から集められていた。彼らはトゥール門に刻んだ落書きを多く残しており、騎士たちが存在した証拠となっている。テンプル騎士団は幾何学的暗号を会得していた。聖杯を意味する八角形、ゴルゴタの十字架を意味する三角形、騎士団は正方形であった。そして円は、閉じ込められている自分たちを表していた。この象徴的な彫刻は、ロシュ、ジゾール、シノンにあるものに近いと判定されたが、その信憑性は専門家たちによって議論されている。投獄されている騎士たちの大部分の裁判は、1310年3月にパリで始まった。
百年戦争中、ドンムはイングランド軍の支配下に入った。最初に制圧されたのは1347年である。幾度か仏英両軍から奪い合われた末、1437年にフランスへ返還された。
新たな苦難がユグノー戦争中のドンムを待ち受けていた。1588年、カステルノーに本拠を置くユグノー派の首領ジョフロワ・ド・ヴィヴァンが、夜に部下とともに崖を上り、崖に向いた門を開けさせ、仲間の軍を引き入れたのである。しかしカトリック軍の勝利で、彼は1592年にドンムを引き渡さねばならなかった。
1594年と1637年の2度、平穏は途切れ農民反乱にみまわれている。
人口統計
編集1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2004年 | 2015年 |
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855 | 876 | 891 | 910 | 1030 | 987 | 1008 | 923 |
参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[2]、2006年以降INSEE[3][4]
ギャラリー
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上空から見たドンム
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18世紀の建物
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町並み
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まちから川を見下ろす
脚注
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