ドロテア・ズザンナ・フォン・デア・プファルツ
ドロテア・ズザンナ・フォン・デア・プファルツ(ドイツ語:Dorothea Susanna von der Pfalz, 1544年11月15日 - 1592年4月8日)は、ザクセン=ヴァイマル公ヨハン・ヴィルヘルムの妃。
ドロテア・ズザンナ・フォン・デア・プファルツ Dorothea Susanna von der Pfalz | |
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出生 |
1544年11月15日 神聖ローマ帝国 プファルツ選帝侯領、ジンメルン |
死去 |
1592年4月8日(47歳没) 神聖ローマ帝国 ザクセン=ヴァイマル公領、ヴァイマル |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 ザクセン=ヴァイマル公領、ヴァイマル、聖ペーター・ウント・パウル教会 |
配偶者 | ザクセン=ヴァイマル公ヨハン・ヴィルヘルム |
子女 |
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 ジビュレ・マリー ヨハン マリー |
家名 | プファルツ=ジンメルン家 |
父親 | プファルツ選帝侯フリードリヒ3世 |
母親 | マリー・フォン・ブランデンブルク=クルムバッハ |
生涯
編集ドロテア・ズザンナは、プファルツ選帝侯フリードリヒ3世と、ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯カジミールの娘マリーの間の娘である。
1560年6月15日にハイデルベルクにおいてザクセン=ヴァイマル公ヨハン・ヴィルヘルムと結婚し、結婚後、夫妻は主にヴァイマルに住んだ。夫の死後、ザクセン選帝侯アウグストが子供たちの後見をつとめたが、この方針はドロテア・ズザンナからの政治的・宗教的影響から子供たちを引き離すことを意味した。ドロテア・ズザンナはヴァイマルの外に新たな居城を与えられ、新城と呼ばれるようになった[1]。ヴァイマールの赤城は、1574年から1576年にかけて建設され、その完成後はドロテア・ズザンナが居を構えた[2]。ルネサンス時代の門にはドロテア・ズザンナと夫ヨハン・ヴィルヘルムの紋章が飾られている。
1581年、ドロテア・ズザンナは兄ルートヴィヒ6世とヨハン・カジミールに、長男フリードリヒ・ヴィルヘルムとヴュルテンベルク公女との結婚について長男の後見人であるドレスデンのザクセン選帝侯アウグストを説得するよう手紙を書いた[3]。
ドロテア・ズザンナは1592年に死去し、ヴァイマルの聖ペーター・ウント・パウル教会に埋葬された[4]。ドロテア・ズザンナのモットーは「わたしは救い主が生きておられることを知っています」であった[5]。
子女
編集- フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(1562年 - 1602年) - ザクセン=ヴァイマル公(1573年 - 1602年)
- ジビュレ・マリー(1563年 - 1569年)
- 男子(死産、1564年)
- ヨハン(en, 1570年 - 1605年) - ザクセン=ヴァイマル公(1602年 - 1605年)
- マリー(1571年 - 1610年)
脚注
編集- ^ State Museums of Berlin: Restored Works of Art in the German Democratic Republic, Association of Artists of the GDR, 1979, p. 180
- ^ “Archived copy”. 2015年9月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年4月3日閲覧。
- ^ Anne-Simone Knöfel: Dynasty and Prestige: The marriage policy of the Wettin family, Böhlau Verlag, Köln Weimar, 2009, p. 438 ff
- ^ “Archived copy”. 2011年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年4月3日閲覧。
- ^ Max Lobe: Devices: mottos and aphorisms, BiblioBazaar, LLC, 2009, p. 172
参考文献
編集- Christoph Heinrich Gottlob: Saxon History, Volume 2, Weidmann, 1782, p. 146 ff.