ドイツ・オリエントバンク
ドイツ・オリエントバンク(独: Deutsche Orientbank)は、ドイツ国立銀行(Nationalbank für Deutschland、後のダナート銀行)の支店を基礎として1906年に発足した在外銀行。ドレスナー銀行とシャフハウゼン銀行連合(A. Schaaffhausen’scher Bankverein)が1600万マルクずつ出し合いベルリンに設立した[1]。初代頭取はドレスナーのグートマン(Herbert M. Gutmann)が務めた。1916年、シャフハウゼン銀行連合がディスコント・ゲゼルシャフトに吸収された。このとき、同連合が保有していたドイツ・オリエントバンク株はドイツ銀行とオーストリア・ハンガリー銀行グループなどに承継された。
概要
編集同行は定款で本国・オリエント間の商業取引を促進することを目的とした。オリエントにはオスマン債務管理局が設置された19世紀末から欧州の独占資本がすでに進出していた。管理局の目的は主に英仏の債権を回収するのがねらいであった。しかし、ドイツ銀行やディスコント・ゲゼルシャフトがオスマン帝国への鉄道敷設や兵器輸出に関わって、イギリスと入れ替わりに保有債権を増やしながら投資活動を加速させた。ここにドイツ・オリエントバンクが登場し、後述するドイツ・パレスチナ銀行オリエント支店を買収してレバントに張り付いた支店網を形成した。18世紀よりドイツは英仏とサンクトペテルブルクにおいてロシア政財界への進出をめぐり競争し、ドイツが一つ頭余計に食い込んでオスマン帝国を南方へ退けることに成功している。列強間の資本輸出競争はギリシアをふくむ東方問題であり、極東では三国干渉に発展した。オスマン分割も前者の延長である。ドイツ・オリエントバンクの支店網は立地が英仏資本であるオスマン銀行と真正面から競争しようとするものであった。
ドイツ・オリエントバンクはDLL(Deutsche Levante-Linie)というハパックと密接な海運会社を重要な取引先とした。また、母体のドイツ国立銀行時代からエジプトで綿花金融を商っており、1907年恐慌が英仏資本を撤退させた後も支店の健全性と顧客とのつながりを両立した。1909年に設置された2つのモロッコ支店はソシエテ・ジェネラルの代理店となったが、第二次モロッコ事件を収拾する協定により1913年ソジェンに売却された。1909年には当地の国家銀行(Banque du Moroc)に資本参加していたが、持分は後にヴェルサイユ条約145条にしたがいアルジェリア銀行(Banque d'Algérie)へ移譲された。イスタンブールでは、1911年にドイツ銀行と地下鉄へ共同参加しており、翌年には同市の交通・電気企業設立のためブリュッセルでコンソーシアムに参加していた。レバントについては1913年にドイツ・パレスチナ銀行を買収し、母体の支店網を拡大していた。
ドイツ・パレスチナ銀行
編集プロテスタント系のDeutsche Palästina- und Orient-Gesellschaft G.m.b.H. が母体である。1899年、ドイツ・パレスチナ銀行(Deutsche Palästina-Bank)となった。ハイト商会(Hydt & Co.)が千マルクの株式450株を25%の払い込みでほとんど引受けた。エルサレム支店は宗教法人・慈善施設ならびにあらゆる宗派の信徒らへ貸し付けた。この活動はドイツ産の石油モーターや砂糖の販売を促進した。設立当初は初期投資が高くつき、またクレディ・リヨネ(現クレディ・アグリコル)と激しく競争したが、やがて軌道に乗り欧米のメガバンクとコルレス契約を結んだ。
1908年にハイト商会が破産した。そこでフュルステン・コンツェルンの持株会社が参加し、このとき資本金が5倍となった[2]。フュルステン・コンツェルンとは、フュルステン・ホーヘンローエ・エーリンゲンとフュルステンベルクの両家が支配する複合企業であった。先の持株会社はDLL株を大量に取得してオリエントへ進出した。ドイツ帝国#経済も参照されたい。
1913年フュルステン・コンツェルンが投機に失敗して破産し、持株会社は解散した。債務整理は懇意の銀行(Berliner Handels-Gesellschaft)だけでは手に負えなくなり、ドイツ銀行が債務の残額100万マルクを引受けた。これを返済するため、順調に経営しているドイツ・パレスチナ銀行はオリエント支店がドイツ・オリエントバンクに売却された。さらにDLLもハパックに吸収された。
脚注
編集参考文献
編集- 赤川元章 『ドイツ金融資本と世界市場』 慶應義塾大学商学会 1994年 441-451頁