トクト (女真人)
トクト(モンゴル語: Toqta、? - 至大4年1月14日(1311年2月10日))は、大元ウルスに仕えた政治家の一人。『元史』などの漢文史料では脱虎脱(tuōhǔtuō)、『ワッサーフ史』などのペルシア語史料ではتقتای(tūqtāy)と記される。
概要
編集『ワッサーフ史』には「تقتای پنجان از جرجه/tūqtāy pinjān az jurje(ジュルチェのトゥークターイ・ピンジャーン/「女真の脱虎脱平章」の意)」と記され、女真人の出であったことが分かる[1]。大徳11年(1307年)、帝位を巡る内紛を経てカイシャンがクルク・カーン(武宗)として即位すると、同年6月にはトクトは江西行省平章政事に抜擢され[2]、翌月には太尉の号を与えられた[3]。
同年9月にはクビライの時代以来設置されていなかった尚書省を復活させることが計画され、そのトップにトクトと教化・ファフルッディーンが任命されて、尚書省の印が鋳造されることになった[4]。一方、従来設置されてきた中書省のトップにはタラカイが任命されたが、こちらは実権のない形式だけのものであったと見られる[5]。また、同年11月には宣政院を統べることにもなった[6]。
クルク・カアンの即位から3年目、至大2年(1309年)7月には交鈔制度の改革とそれを担う尚書省の再設置が正式に決まった[7]。新たに設置された尚書省では、乞台普済が最高位の右丞相、トクトがそれに次ぐ左丞相、サンバオヌ・楽実らが平章政事、保八が右丞、王羆が参知政事に、それぞれ任命された[8][9]。
以後、トクトは続けざまに重要な職務を任され、同年8月には皇太子アユルバルワダの右衛府の運営[10]、9月には大都の南の仏寺の建築工事主任[11]、11月には国史の編纂を、それぞれ任命された[12]。至大3年(1310年)正月、皇后冊立の儀式で玉冊・玉宝を役職を受け[13]、同年6月には遂に尚書省で最高位の右丞相に任命された[14]。その後、サンバオヌとともに珠衣を与えられ[15]、同年11月には義国公に封ぜられた[16]。
こうして権勢の極みにあったトクトであったが、至大4年(1311年)初頭にクルク・カアンが急死すると状勢は一変した。「皇太子」でクルク・カアンの弟のアユルバルワダは皇帝死去の僅か2日後にトクトを初め、尚書省の要人を「民を苦しめた」という曖昧な理由で全て捕らえ尚書省を廃止してしまった[17]。そして、更にその4日後にはトクト・サンバオヌ・楽実・保八・王羆ら尚書省の主要メンバーはほとんどが処刑されてしまった[18]。そもそも、モンゴル帝国では先帝が生前指名した後継者であってもクリルタイでの承認を得ないとカアンに即位できないにもかかわらず、正式な即位を経ずにクルク・カアンの側近達を拘禁・処刑したアユルバルワダ一派の行動はクーデターに他ならなかった[19]。
また、トクトらの処刑の8日後には「トクト等に阿附した左右司・六部の官の罪を許した」とされるが[20]、正式に丞相の座にあったトクトの命を受けたことを「阿附した」とするのも不自然に他ならず、これも言いがかりであることは承知の上でクーデターに反対する者達を威嚇するために持ち出した「罪状」であるとみられる[21]。こうして、トクトを首班とするクルク・カアンの「新政」は発足後1年余りで頓挫してしまった[22]。
脚注
編集- ^ 杉山 1995, p. 116.
- ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳十一年六月]辛亥、以中書平章政事脱虎脱為江西行省平章政事」
- ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳十一年秋七月]丁丑……加平章政事脱虎脱太尉」
- ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳十一年九月]甲申、詔立尚書省、分理財用。命塔剌海・塔思不花仍領中書。以脱虎脱・教化・法忽魯丁任尚書省、仍俾其自挙官属。命鑄尚書省印」
- ^ 杉山 1995, p. 114-115.
- ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳十一年十一月]己巳……詔『中書省官十二員、脱虎脱仍領宣政院、教化留京師、其餘各任以職』」
- ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大二年秋七月]乙未……楽実言鈔法大壊、請更鈔法、図新鈔式以進、又与保八議立尚書省、詔与乞台普済・塔思不化・赤因鉄木児・脱虎脱集議以聞」
- ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大二年秋七月]乙巳、保八言『臣与塔思不花・乞台普済等集議立尚書省事、臣今窃自思之、政事得失、皆前日中書省臣所為、今欲挙正、彼懼有累、孰願行者。臣今不言、誠以大事為懼。陛下若矜憐保八・楽実所議、請立尚書省、旧事従中書、新政従尚書。尚書、請以乞台普済・脱虎脱為丞相、三宝奴・楽実為平章、保八為右丞、王羆参知政事」
- ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大二年八月]癸丑、立尚書省、以乞台普済為太傅・右丞相、脱虎脱為左丞相、三宝奴・楽実為平章政事、保八為右丞、忙哥鉄木児為左丞、王羆為参知政事、中書左丞劉楫授尚書左丞・商議尚書省事、詔告天下」
- ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大二年八月]己未、立皇太子右衛率府、秩正三品、命尚書右丞相脱虎脱・御史大夫不里牙敦並領右衛率府事」
- ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大二年九月]癸未……以大都城南建仏寺、立行工部、領行工部事三人、行工部尚書二人、仍令尚書右丞相脱虎脱兼領之」
- ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大二年十一月]丁酉、太尉・尚書右丞相脱虎脱監修国史」
- ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大三年春正月]辛卯、立皇后弘吉剌氏、遣脱虎脱摂太尉持節授玉冊・玉宝」
- ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「至大三年六月丁未朔、詔太尉・尚書右丞相脱虎脱、太保・尚書左丞相三宝奴総治百司庶務、並従尚書省奏行」
- ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大三年六月]壬申、以西北諸王察八児等来朝、告祀太廟。賜脱虎脱・三宝奴珠衣。封三宝奴為楚国公、以常州路為分地」
- ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大三年十一月]辛巳……加脱虎脱為太師・録軍国重事、封義国公」
- ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「四年春正月庚辰、武宗崩。壬午、罷尚書省。以丞相脱虎脱・三宝奴、平章楽実、右丞保八、左丞忙哥鉄木児、参政王羆、変乱旧章、流毒百姓、命中書右丞相塔思不花・知枢密院事鉄木児不花等参鞫」
- ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[四年春正月]丙戌、脱虎脱・三宝奴・楽実・保八・王羆伏誅、忙哥鉄木児杖流海南」
- ^ 杉山 1995, p. 118-119.
- ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[四年春正月]甲午、宥阿附脱虎脱等左右司・六部官罪」
- ^ 杉山 1995, p. 117.
- ^ 杉山 1995, p. 110-112.
参考資料
編集- 杉山正明「大元ウルスの三大王国 : カイシャンの奪権とその前後(上)」『京都大學文學部研究紀要』第34巻、京都大學文學部、1995年3月、92-150頁、CRID 1050282677039186304、hdl:2433/73071、ISSN 0452-9774。