トガンモンゴル語: ᠲᠣᠭᠣᠨ, ラテン文字転写: Toγan, キリル文字転写: Тогоон、? - 大徳5年(1301年))は、モンゴル帝国)の皇族。『元史』などの漢文史料では脱歓、『集史』などのペルシア語史料ではتوقانTūqān)と記される。

生涯

編集

第5代皇帝クビライ・カアンの庶子。『集史』によると母はバヤウト部のブラクジンの娘のバヤウジンで、クビライにとっては11番目の息子であった。モンケ・カアンの側室にもバヤウジンという名の側室(シリギの生母)がおり、同一人物ではないかと推測されている[1]

至元21年(1284年)6月、トガンは父のクビライから鎮南王に封ぜられ[2]、7月にチャンパ王国を征服するよう命じられた[3]。鎮南王位は大元ウルスの制度において6階級中第2位に位置する高位の王号で、第4〜5位の王号しか与えられなかった他の庶子(フゲチアウルクチココチュら)に比べると破格の待遇であった。これはクビライがトガンの南方征服に大きな期待を寄せていたためと推測されている[4]

同年末にはトガンは安南陳朝大越)に至り、軍を分けて大越への侵攻を開始した[5]。しかし大越側の将の陳国峻の活躍もあって元軍は苦戦し、至元25年(1288年)の白藤江の戦いにおいてトガン率いる元軍は大敗した。

至元28年(1291年)、敗退したトガンは命を受けてモンゴル軍500・漢兵1000人とともに揚州に出鎮した[6]ものの、安南での敗戦に怒ったクビライは死ぬまでトガンが謁見するのを許さなかったという[7]

これ以後のトガンの活動についてはほとんど記述がなく、わずかにクビライ没後のクリルタイに出席してテムルを推戴したこと、テムル即位直後に他の存命の兄弟とともに下賜を受けたことが記録されているのみである[8]

大徳2年(1298年)に6万錠の下賜を受けた[9]のを最後にトガンに関する記述はなくなり、『元史』巻108諸王表にはトガンが大徳5年(1301年)に死去したため、同年に子のラオジャンが鎮南王位を承襲したことが記されている[10]

家系

編集

『元史』巻107 宗室世系表ではトク・ブカ(脱不花)、コンチェク・ブカ(寛徹普化)、テムル・ブカ(帖木児不花)の三兄弟をトガンの子のラオジャン(老章)の子としているが、巻117寛徹普化・帖木児不花伝ではトガンの子であると明記されており、矛盾が生じている。しかし『元史』宗室世系表は同名人物の取り違えなど誤りが多く、中華民国期に編纂された『新元史』や『蒙兀児史記』など多くの史書は列伝の記述を優先しこれら三兄弟をトガンの子と記述している。

脚注

編集
  1. ^ 志茂2013, 585頁
  2. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年六月]甲寅、詔封皇子脱歓為鎮南王、賜塗金銀印、駐鄂州」
  3. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年七月]戊子、詔鎮南王脱歓征占城」
  4. ^ 野口1986, 302頁
  5. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年十二月]是月、鎮南王軍至安南、殺其守兵、分六道以進、安南興道王以兵拒於万劫、進撃敗之、万戸倪閏戦死於劉村」
  6. ^ 『元史』巻16世祖本紀13,「[至元二十八年二月丙戌]詔江淮行省遣蒙古軍五百、漢兵千人、従皇子鎮南王鎮揚州」
  7. ^ 『元史』巻117列伝4帖木兒不花伝,「初、世祖第九子脱歓以討安南無成功、終身不許見、遂封鎮南王、出鎮揚州」
  8. ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[至元三十一年六月壬辰]定西平王奥魯赤・寧遠王闊闊出・鎮南王脱歓及也先帖木而大会賞賜例、金各五百両・銀五千両・鈔二千錠・幣帛各二百匹…」
  9. ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[大徳二年二月丙子]賜爪忽而所部鈔三十万錠、近侍伯顔鉄木而等三万錠、也先鉄木而等市馬価三万四千四百余錠、鎮南王脱歓六万錠」
  10. ^ 『元史』巻108表第3諸王表,「[脱歓]大徳五年薨。 老章、大徳五年襲封」

参考文献

編集
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 野口周一「元代世祖・成宗期の王号授与について」『中国史における乱の構図』雄山閣出版、1986年
  • 元史』巻117列伝4
  • 新元史』巻114列伝11
  • 蒙兀児史記』巻76列伝58