デヴィッド・バーリーDavid Burghley1905年2月9日 - 1981年10月22日)は、イギリス陸上競技選手、貴族、政治家。

獲得メダル

デヴィッド・バーリー
イギリスの旗 イギリス
陸上競技
オリンピック
1928 アムステルダム 400mハードル
1932 ロサンゼルス 4×400mリレー

襲爵後の本名は、第6代エクセター侯爵デヴィッド・ジョージ・ブラウンロー・セシル (David George Brownlow Cecil, 6th Marquess of Exeter KCMG KStJ) で、上記の名乗りは爵位継承前の儀礼称号バーリー卿 (Lord Burghley) から取ったもの。家名(姓)はバーリーではなくセシルである。

経歴

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第5代エクセター侯爵ウィリアム・セシル英語版と妻ミラ・ロウェナ・シベル(1879年12月22日 – 1973年、第4代ボルトン男爵ウィリアム・オード=ポーレットの娘)の息子として、1905年2月9日にリンカンシャーバーリー・ハウス英語版で生まれた[1][2]イートン・カレッジケンブリッジ大学モードリン・カレッジで教育を受けた[2]

バーリーはパブリックスクール時代、そして学生時代は非常に名の通った陸上選手であった。英国AAA選手権の120ヤード走で1929年から3連覇、440ヤードハードルでは1926年から3連覇、さらに1930年からも3連覇を果たしている。

バーリーが最初にオリンピックの舞台に立ったのは、1924年パリオリンピックであった。110mハードルに出場したバーリーであったが、予選を突破することができなかった。バーリーは、1928年アムステルダムオリンピックに連続出場を果たす。110mハードルは前回に引き続き準決勝で敗退したものの、400mハードルではアメリカフランク・クーヘルモーガン・テイラーを破り金メダルを獲得した。さらにバーリーは、1930年に開催された、大英帝国競技大会(現在のコモンウェルスゲームズ)でも、120ヤード、440ヤードの2つのハードル種目と、4×400mリレーで金メダルを獲得した。

1931年イギリス総選挙保守党候補としてピーターバラ選挙区英語版から出馬、26,640票を得て庶民院議員に当選した。翌年のロサンゼルスオリンピックには議会を欠席し出場、400mハードルでは5位に終わったものの、4×400mリレーでは銀メダルを獲得した。

バーリーはその後、英国陸連の会長を40年間務め、1946年から30年間、国際陸連の会長の職を務める。国際オリンピック委員の職に48年、さらに1948年ロンドンオリンピックの組織委員長を務めた。

1935年イギリス総選挙で22,677票を得て再選した。1943年にバミューダ総督に任命されると、同年9月20日にチルターン・ハンドレッズ執事英語版に任命され、議員を退任した[3]

1943年9月8日、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・コマンダーを授与された[4]。同年12月23日、バミューダ民兵隊の名誉隊長に任命された[5]。1944年7月1日、セント・ジョン勲章英語版ナイトを授与された[6]

1927年9月3日に少尉としてにイギリス陸軍グレナディアガーズに配属されたが[7]、中尉に昇進した後、1929年9月7日に陸軍から引退した[8]。同日に予備役に編入され[9]、1949年1月1日に中尉から少佐に昇進した[10]。1952年4月、中佐の名誉階級を与えられた[11]。1955年4月9日、年齢制限の上限に達したことにより予備役から除隊した[12]

1956年8月6日に父が死去すると、エクセター侯爵位を継承した[2]

1981年10月21日に死去した[2]。息子が夭折したため、爵位は弟ウィリアム・マーティン・アレイン英語版が継承した[2]

家族

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1929年1月10日、メアリー・テリーザ・モンタギュー=ダグラス=スコット(Mary Theresa Montagu-Douglas-Scott、1984年没、第7代バクルー公爵ジョン・モンタギュー=ダグラス=スコットの娘)と結婚したが、2人は1946年に離婚した[2]

  • 男子(1933年6月1日 – 1934年7月6日[2]
  • ほか4人の娘

1946年12月12日、ダイアナ・メアリー・ヘンダーソン(Diana Mary Henderson、1982年没、アーノルド・ヘンダーソンの娘、デイヴィッド・ウォルター・アーサー・ウィリアム・フォーブスの未亡人)と再婚した[2]

出典

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  1. ^ Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1926). The Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat) (英語). Vol. 5 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. p. 224.
  2. ^ a b c d e f g h Cokayne, George Edward; Hammond, Peter W., eds. (1998). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Addenda & Corrigenda) (英語). Vol. 14 (2nd ed.). Stroud: Sutton Publishing. p. 312. ISBN 978-0-7509-0154-3
  3. ^ "No. 36179". The London Gazette (英語). 21 September 1943. p. 4187.
  4. ^ "No. 36172". The London Gazette (英語). 14 September 1943. p. 4093.
  5. ^ "No. 36313". The London Gazette (1st supplement) (英語). 31 December 1943. p. 77.
  6. ^ "No. 36599". The London Gazette (英語). 7 July 1944. p. 3191.
  7. ^ "No. 33308". The London Gazette (英語). 2 September 1927. p. 5673.
  8. ^ "No. 33532". The London Gazette (英語). 6 September 1929. p. 5774.
  9. ^ "No. 33532". The London Gazette (英語). 6 September 1929. p. 5775.
  10. ^ "No. 39473". The London Gazette (Supplement) (英語). 19 February 1952. p. 1034.
  11. ^ "No. 39509". The London Gazette (Supplement) (英語). 4 April 1952. p. 1942.
  12. ^ "No. 40448". The London Gazette (Supplement) (英語). 5 April 1955. p. 2067.

外部リンク

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グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会
先代
J・F・ホラビン英語版
庶民院議員(ピーターバラ選挙区英語版選出)
1931年 – 1943年
次代
シュアデール子爵
官職
先代
ノウルズ子爵英語版
バミューダ総督
1943年 – 1945年
次代
サー・ラルフ・リーサム英語版
イギリスの爵位
先代
ウィリアム・トマス・ブラウンロー・セシル英語版
エクセター侯爵
1956年 – 1981年
次代
ウィリアム・マーティン・アレン・セシル英語版