デトロイト・ウルバリンズ
デトロイト・ウルバリンズ(Detroit Wolverines)は、1881年から1888年まで、ミシガン州デトロイトを本拠地とし、メジャーリーグベースボールのナショナルリーグに所属していたプロ野球チーム。
球団史
編集球団は1881年に、当時のデトロイト市長ウィリアム.G.トンプソンの提案により創立された。トンプソンは1879年にデトロイトに本格的な野球場となるレクリエーション・パークを建設、その後1880年に規則違反によりナショナルリーグを除名されたシンシナティ・レッズ(※現在の球団とは異なる)のフランチャイズ権を取得し、デトロイトを本拠地とするプロの野球チームを結成して同年ナショナルリーグに参加した。
最初の2年はデトロイト市が球団を所有していた。勝率5割前後を維持していたが、1882年オフに市長が球団をビジネスマンのジョセフ・マーシュに売却すると成績は低迷し、1884年シーズンには深刻な得点力不足に悩まされ、チームは28勝84敗と散々な成績に終わってしまう。
1885年に新たに球団のオーナーとなったフレデリック・ステアーンズは、ウルバリンズの一大補強に乗り出した。彼はこの年の8月にバッファロー・バイソンズのフランチャイズ権を買収し、バイソンズに所属していたスター選手達を次々とウルバリンズに送り込んだ。特にダン・ブローザース、ジャック・ロウ、ハーディ・リチャードソン、ディーコン・ホワイトの4選手は、当時『ビッグ・フォー』と呼ばれた。スター軍団に生まれ変わったウルバリンズは、1886年シーズンに7割以上の勝率を残し、投手レディ・ボールドウィンはチーム勝利数の半分近い42勝をあげてリーグの最多勝利投手となった。翌1887年、ウルバリンズはついにナショナルリーグを制覇する。この時のメンバーには、上記の4人のほかに名二塁手だったフレッド・ダンラップや、チームの生え抜き選手として成長していたサム・トンプソン、のちに名監督となるネッド・ハンロンなどが名を連ねていた。
しかし球団はこれら高給な選手を長く抱えられるわけでもなく、翌1888年シーズンの優勝争いから脱落すると、抱えていた選手を放出し、チームもナショナルリーグから脱退した。球団はその後1889年から1890年にマイナーリーグで活動し、1890年に所属リーグが消滅した際共にチームも解散した。
戦績
編集年度 | リーグ | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 順位 | 監督 | 本拠地 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1881年 | NL | 84 | 41 | 43 | .488 | 4位 | フランク・バンクロフト | Recreation Park |
1882年 | 86 | 42 | 41 | .506 | 5位 | フランク・バンクロフト | ||
1883年 | 101 | 40 | 58 | .408 | 7位 | ジャック・チャップマン | ||
1884年 | 114 | 28 | 84 | .250 | 8位 | ジャック・チャップマン | ||
1885年 | 108 | 41 | 67 | .380 | 6位 | チャーリー・モートン ビル・ワトキンス | ||
1886年 | 126 | 87 | 36 | .707 | 2位 | ビル・ワトキンス | ||
1887年 | 126 | 79 | 45 | .637 | 1位 | ビル・ワトキンス | ||
1888年 | 134 | 68 | 63 | .519 | 5位 | ビル・ワトキンス ボブ・リードリー |
所属した主な選手
編集主な球団記録
編集- 球団戦績
- リーグ優勝:1回(1887年)、年間王者決定戦優勝1回(1887年)
- 通算記録
- 通算安打数:879(ネッド・ハンロン)
- 通算得点数:623(ネッド・ハンロン)
- 通算盗塁数:157(ネッド・ハンロン)
- 通算本塁打:37(チャーリー・ベネット)
- 通算打点数:353(チャーリー・ベネット)
- 通算勝利数:95(プレッツェルズ・ゲッツァイン)
- 通算奪三振:726(プレッツェルズ・ゲッツァイン)
- 通算防御率:3.09(プレッツェルズ・ゲッツァイン)