テオ・ファン・ドゥースブルフ
テオ・ファン・ドゥースブルフ[1](Theo van Doesburg、1883年8月30日 - 1931年3月7日)は、オランダの画家、建築家、美術家。本名はChristiaan Emil Marie Küper。I・K・ボンセット(I. K. Bonset)、アルド・カミーニ(Aldo Camini)などの筆名も用いた。
テオ・ファン・ドゥースブルフ Theo van Doesburg | |
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『自画像』 | |
生誕 |
Christiaan Emil Marie Küper 1883年8月30日 オランダ・ユトレヒト |
死没 |
1931年3月7日 (47歳没) スイス・ダボス |
国籍 | オランダ |
著名な実績 | 絵画、建築、詩 |
運動・動向 | デ・ステイル、Concrete art、要素主義、ダダイスム |
経歴
編集オランダのユトレヒトに生まれる。父親は写真家。
1917年にライデンにて、ピエト・モンドリアン、バート・ファン・デル・レック(Bart van der Leck, 1876年-1958年)らとともにデ・ステイルを結成し、同名の雑誌を刊行(1928年まで)。新造形主義・抽象絵画(非具象芸術)の普及に努める。
1920年代初頭にはバウハウスと交流し、講師にはなれなかったが、自身の思想をバウハウスに浸透させることに成功した。
1923年にはコーネリアス・ファン・エーステレンと共同でデ・ステイル建築計画案を発表している。また、1920年代を通じ、構成主義者(エル・リシツキーなど)やダダイスト(トリスタン・ツァラやハンス・アルプ)などと幅広く交流し、その間の橋渡しも行った。
1920年代半ばには、要素主義を導入し、モンドリアンと対立、モンドリアンは、デ・ステイルを離脱した。
1931年、オーギュスト・エルバン(Auguste Herbin; 1882年-1960年)、ジョルジュ・ファントンゲルロー(Georges Vantongerloo, 1886年-1965年)らに協力して、パリで、「アブストラクション・クレアシオン(抽象=創造)」(Abstraction-Creation)の創立に参加するも(なお、アブストラクション・クレアシオンには、モンドリアンも参加し、交流が復活していた)、同年急逝。
日本語訳
編集作品
編集-
「キンポウゲを持つ少女」(1914)
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Abstract portrait (c.1915)
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樹木 (1916)
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Composition X (1918)
脚注
編集- ^ 崔在錫「テオ・ファン・ドゥースブルフの言説からみた建築造形概念」、1992年
参考文献
編集- Baljeu, Joos. Theo van Doesburg. Studio Vista: 1974, ISBN 0-289-70358-1.
- Hoek, Els, Marleen Blokhuis, Ingrid Goovaerts, Natalie Kamphuys, et al. Theo Van Doesburg: Oeuvre Catalogus. Centraal Museum: 2000. ISBN 90-6868-255-5.
- Overy, Paul. De Stijl. Studio Vista: 1969. ISBN 0-289-79622-9.
- White, Michael: De Stijl and Dutch modernism. Manchester University Press: 2003. ISBN 0-7190-6162-8.