テオドール・シュワン
テオドール・シュワン[1](ドイツ語:Theodor Schwann、1810年12月7日 - 1882年1月11日)は、フランス第一帝政(現:ドイツ)ノイス出身の生理学者、動物学者。動物に於ける「細胞説」の提唱者として著名だが、組織学にも貢献し組織学の創始者と言われる[2]。
テオドール・シュワン[1] | |
---|---|
生誕 |
Theodor Schwann 1810年12月7日 フランス帝国(現:ドイツ)ノイス |
死没 |
1882年1月11日(71歳没) ドイツ帝国ケルン |
研究分野 | 生物学、解剖学、動物学 |
出身校 |
フンボルト大学ベルリン ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン ユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルク |
主な業績 |
ペプシンの発見(1836年) 発酵の作用は微生物が原因と言う説の主張(1837年) 動物の細胞説を提唱(1839年) シュワン細胞の発見 「代謝」を造語 |
影響を 受けた人物 |
ヨハネス・ペーター・ミュラー マティアス・ヤーコプ・シュライデン |
影響を 与えた人物 | ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウ |
主な受賞歴 |
コプリ・メダル(1845年) プール・ル・メリット勲章(1875年) |
命名者名略表記 (植物学) | Schwann |
プロジェクト:人物伝 |
1836年に豚の胃の胃液からペプシンを発見[3]。タンパク質に肉を溶かす働きがあることを確認し、「消化」を意味するギリシャ語の「ペプトス(πέψις)」に因んで「ペプシン」を命名した。
1838年にはシュワンと同じくフンボルト大学ベルリンで研究していた同国出身の植物学者マティアス・ヤーコプ・シュライデンと知り合い[4]、シュライデンと食事をしていた所、植物の細胞の話になり[5]、お互い「あらゆる生物は細胞から成り立っている」と言う意見が一致した。シュライデンは同年1838年に論文『植物発生論』の中で「植物は独立した細胞の集合体」であるとして植物の細胞説を、シュワンは1839年に論文『動物及び植物の構造と成長の一致に関する顕微鏡的研究』で動物の細胞説を提唱し[6]、今日呼ばれる「細胞説」の提唱者として名高い。
その他の業績に、解剖学の分野でも末梢神経細胞の軸索を取り囲む神経膠細胞である「シュワン細胞」を発見したことや[7]、生物に於ける化学的過程を意味する「代謝 (metabolism)」と言う言葉を造語した業績が挙げられる[2]。
1845年にイギリス王立協会からコプリ・メダルが授与され、1875年にはプロイセン王国からプール・ル・メリット勲章が授けられた。
生涯
編集1810年12月7日、現在のドイツのノイスに金細工の仕事をしていた父レオンハルト・シュワン(Leonard Schwann)[8]と母エリザベート(Elisabeth)の元に生まれる。大学に入る前までは神父を目指していたが、大学に入って自然科学の面白さに気付くと生物学の研究に専念するようになった[4]。
はじめフンボルト大学ベルリンで同国出身の生理学者ヨハネス・ペーター・ミュラーの弟子として4年間学び、生理学、病理学を修めた[9]。シュワンはミュラーの元で、アルブミンに対する胃液の作用は塩酸によるものではなく、肉から抽出した成分や唾液との反応とも異なると言う結論を導いている。1829年からはライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボンやユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルクで自然科学や医学を学び[9][10]、1834年に研究者として再びフンボルト大学ベルリンに戻ってきた。
ニワトリ胚の呼吸を研究していたシュワンは、1836年に豚の胃からペプシンを発見・命名した。翌年の1837年には発酵の作用は微生物が原因と言う説を主張しており、フランスの生化学者ルイ・パスツールの研究の先駆けであったが、当時はあまり認められなかった[10]。
1838年にはフンボルト大学ベルリンで研究を行い、同じくそこで研究を行っていたシュライデンと知り合い、上述した通り「細胞説」に確信を持つようになり、シュライデンは同年1838年に論文『植物発生論』の中で植物の細胞説を、シュワンは翌年1839年に論文『動物及び植物の構造と成長の一致に関する顕微鏡的研究』で動物の細胞説を提唱した。この時、シュライデンと話したシュワンは直ちに自分の研究室に戻り、脊索細胞を鏡検して細胞説に確信を抱いたと言われる。なお1838年にシュワンはベルギーのルーヴァン・カトリック大学に招かれ、教授として教鞭を執る傍ら糖とデンプンの発酵や、筋肉の特性と働き、神経細胞の研究を行っていた[9]。シュワンは熱心なカトリック教徒であったため、ドイツの大学に招聘されても応じなかったと言うエピソードが残っている[5]。
1845年にイギリス王立協会からコプリ・メダルが授与された。
1848年からは同じくベルギーのリエージュ大学で教授を務めた。
1875年にプロイセン王国からプール・ル・メリット勲章が授けられた。
晩年は質素な生活を送り、1882年1月11日にドイツのケルンで没した。彼の生まれ故郷であるノイスには彼の記念碑が建てられている。
脚注
編集- ^ a b テオドール・シュヴァンなどの表記揺れも存在するが、本項目では「シュワン」と統一して記述する。
- ^ a b Theodor Schwann (1810-1882)、2015年5月4日閲覧。
- ^ 呼吸の謎に挑んだ人々 1 代謝Ⅰ、2015年5月4日閲覧。
- ^ a b 細胞の謎に挑んだ人々 2、2015年5月4日閲覧。
- ^ a b 世界大百科事典 1972, p. 215.
- ^ 山科 2009, p. 25.
- ^ グランド現代百科事典 1983.
- ^ レオンハルトははじめ金細工の仕事をしていたが、後に出版関連の仕事に就いている。
- ^ a b c 世界大百科事典 1972, p. 214.
- ^ a b 世界文化大百科事典 1971.
参考文献
編集- Herbermann, Charles, ed. (1913). Catholic Encyclopedia. New York: Robert Appleton Company. .
- 深川泰男 著、林達夫 編『世界大百科事典 14 シャーシュ』(1972年版)平凡社〈世界大百科事典〉(原著1972-4)。
- 石田寿老 著、澤田嘉一 編『大日本百科事典 9 しゃーしんさ』小学館〈日本大百科全書〉(原著1967年11月20日)。
- 石山昱夫 著、鈴木泰二 編『グランド現代百科事典 15 シツキーシヨウオ』学習研究社(原著1983-6-1)。
- 中村禎里 著、鈴木勤 編『世界文化大百科事典 6 シャフーセンソ』世界文化社(原著1971年)。
- 林達夫、野田又夫、久野収、山崎正一、串田孫一監修 著、下中邦彦発行 編『哲学事典』(初版第4刷)平凡社(原著1973-8-20)。
- 小川鼎三 著、山越豊 編『医学の歴史』(第12版)中公新書(原著1971-2-5)。
- 山科正平 著、鈴木哲 編『細胞発見物語 その驚くべき構造の解明からiPS細胞まで』(第1刷)ブルーバックス(原著2009年10月20日)。ISBN 978-4062576550。
- マイケル・モーズリー、ジョン・リンチ 著、久芳清彦 訳、川畑慈範 編『科学は歴史をどう変えてきたか その力、証拠、情熱』(初版第1刷)(原著2011年8月22日)。ISBN 978-4487805259。
関連項目
編集- ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウ - ドイツの病理学者。白血病の発見者として著名だが、細胞説に影響を受け「全ての細胞は他の細胞に由来する」と言う言葉を残し、「細胞病理学」を築き上げた業績でも知られる。
- イェンス・ベルセリウス - スウェーデンの化学者。原子記号にアルファベット表記を採用した業績で著名。シュワンのペプシン説について概ね賛同していたが、念のためペプシンの単離を示唆したエピソードが残っている。
- ユストゥス・フォン・リービッヒ - ドイツの化学者。「農芸化学の父」と呼ばれることで著名。ベルセリウスがシュワンのペプシン説を賛同した一方でリービッヒはこの説について反対していた。