チェーザレ・デステCesare d'Este, 1561年10月8日 - 1628年12月11日)は、モデナ=レッジョ公。最後のフェラーラ公となった。

チェーザレ・デステ
Cesare d'Este
モデナ=レッジョ公
在位 1597年10月27日 - 1628年12月11日
別号 フェラーラ公
在位 1597年10月27日 - 1598年1月30日

出生 (1561-10-08) 1561年10月8日
フェラーラ公国フェラーラ
死去 (1628-12-11) 1628年12月11日(67歳没)
フェラーラ公国フェラーラ
配偶者 ヴィルジニア・デ・メディチ
子女 一覧参照
家名 エステ家
父親 モンテッキオ侯アルフォンソ・デステ
母親 ジューリア・デッラ・ローヴェレ
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生涯

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フェラーラで、モンテッキオ侯アルフォンソ・デステ(フェラーラ公アルフォンソ1世・デステの庶子)と妃ジューリア・デッラ・ローヴェレの長男として生まれた。従兄はフェラーラ公及びモデナ公アルフォンソ2世・デステである。アルフォンソ2世が嫡子のないまま1597年に死去したため、チェーザレが公位を継いだ。しかし、嫡出子にのみ継承権を認めるとしていた神聖ローマ皇帝ルドルフ2世ローマ教皇クレメンス8世により、1598年にフェラーラ公国は教皇領として没収された。

首都をフェラーラからモデナに移してからは波乱含みであった。フェラーラ貴族とモデナ貴族の対立の仲介に立ち、ガルファニャーナの所有をめぐってルッカ共和国と戦争が起きた。1586年に結婚した妃ヴィルジニア・デ・メディチトスカーナ大公コジモ1世の庶子)は早くから精神病を患い、亡くなるまで苦しんだ。

チェーザレ自身は穏やかで信心深い人物だったが、政治的な才能に欠けていた。彼の死後は息子のアルフォンソ3世・デステが継いだ。

子女

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  • ジューリア(1588年 - 1645年)
  • アルフォンソ3世(1591年 - 1644年) - モデナ公
  • ルイージ(1593/94年 - 1664年) - モンテッキオ及びスカンディアーノ僭主
  • ラウラ(1594年 - 1630年)
  • カテリーナ(1595年 - 1618年)
  • イッポーリト(1599年 - 1647年)
  • ニッコロ(1601年 - 1640年)
  • ボルソ(1605年 - 1657年)
  • フォレスト(1606年 - 1639/40年)
  • アンジェラ(? - 1651年) - 尼僧

脚注

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注釈

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出典

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先代
アルフォンソ2世
フェラーラ公
1597年 - 1598年
次代
教皇領へ併合)
先代
アルフォンソ2世
モデナ公
1597年 - 1628年
次代
アルフォンソ3世