ダニエル・T・グリフィン (護衛駆逐艦)
艦歴 | |
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発注 | 1942年 |
起工 | 1942年9月7日 |
進水 | 1943年2月25日 |
就役 | 1943年6月9日 |
退役 | 1946年5月30日 |
その後 | 1966年11月15日にチリに移管 |
除籍 | 1966年12月1日 |
性能諸元 | |
排水量 | 軽貨:1,400トン、 基準:1,740トン |
全長 | 306 ft (93 m) |
全幅 | 37 ft (11 m) |
吃水 | 基準:9 ft 6 in (2.90 m) 満載:11 ft 3 in (3.43 m) |
機関 | ターボ・エレクトリック 2軸推進(12,000 shp) |
最大速 | 23ノット (43 km/h; 26 mph) |
航続距離 | 3,700カイリ (6,900 km) 15ノット時 (28 km/h; 17 mph) |
乗員 | 士官15名 兵員198名 |
兵装 | 50口径3インチ砲3門 75口径1.1インチ対空砲4門 20mm対空砲8門 21インチ魚雷発射管3基 ヘッジホッグ1基 |
ダニエル・T・グリフィン (USS Daniel T. Griffin, DE-54/APD-38) は、アメリカ海軍の護衛駆逐艦。バックレイ級護衛駆逐艦の1隻。艦名は真珠湾攻撃で戦死した水兵のダニエル・T・グリフィンに因む。
艦歴
編集ダニエル・T・グリフィンはマサチューセッツ州ヒンガムのベスレヘム・ヒンガム造船所で1942年9月7日に起工する。1943年2月25日にD・T・グリフィン夫人によって命名、進水し、6月9日に艦長P・M・フェントン少佐の指揮下就役した。
就役後は1943年8月15日から9月24日まで仏領モロッコのカサブランカへ向かう船団を護衛した後、ニューヨークと北アイルランド間での船団護衛を担当し、1943年10月13日から1944年9月23日までの間に8度の大西洋横断を経験した。
10月22日、ニューヨーク州のスタテンアイランドに到着、チャールズ・ローレンス級高速輸送艦への改装が行われる。ダニエル・T・グリフィンは1944年10月23日に APD-38 (高速輸送艦)に艦種変更された。
1945年1月13日にノーフォークを出航、ダニエル・T・グリフィンは2月6日に真珠湾に到着、水中破壊チームと共に任務に就く。2月14日に出航、ウルシー環礁およびコソル水道へ向かう船団の護衛を担当し、続いて3月5日にレイテ島のサンペドロ湾に到着し、ホノンハン島沖での侵攻作戦演習に従事した。3月19日に慶良間列島に向けて出航、26日に到着する。沖縄戦の間、ダニエル・T・グリフィンは慶良間列島で船団護衛と掃海を行い、沖縄の海岸に爆薬を届けた後、5月18日まで救難艦任務に従事した。4月6日には数機の特攻機の攻撃を受け、少なくとも2機を破壊した。駆逐艦モリス (USS Morris, DD-417) が攻撃を受けたとき、ダニエル・T・グリフィンはモリスを慶良間列島まで護衛し、その消火を行った。
ダニエル・T・グリフィンは1945年5月20日から6月19日までの間、サイパンで沿岸護衛任務に従事し、続いて沖縄への船団護衛を行い、沖縄からウルシー環礁への船団護衛も行った。7月11日、ダニエル・T・グリフィンはサンペドロ湾に到着、9月22日までフィリピンでの様々な任務に従事し、その後呉に占領軍部隊を輸送、10月6日から11日にかけて部隊を上陸させた。
10月16日にマニラに帰還、12月2日にフィリピンで配置転換され、本国へ向けて出航した。サンディエゴに寄港した後1946年1月11日にノーフォークに到着、3月4日にフロリダ州グリーンケーヴスプリングスに到着し、同地で1946年5月30日に予備役となった。
チリ海軍で
編集ダニエル・T・グリフィンは1966年11月15日にチリに移管され、ビルヒリオ・ウリベ (Virgilio Uribe, APD-29) と改名された。ビルヒリオ・ウリベは1995年に退役し、スクラップとして廃棄された。
ダニエル・T・グリフィンは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。
外部リンク
編集- navsource.org
- history.navy.mil - ウェイバックマシン(2004年2月10日アーカイブ分)[リンク切れ]
- この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。