シャー・タフマースブ2世طهماسب‎, Shah Ṭahmāsp II、1704年 - 1740年2月11日)は、イランのサファヴィー朝末期の君主の一人(在位:1722年11月 - 1732年)。

タフマースブ2世の名の下で鋳造された金貨

生涯

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タフマースプはシャースルターン・フサイン・サファヴィーの3番目の息子である[1]:124。17世紀後半からサファヴィー朝に服属していたカンダハール地方ギルザイ部族が1709年に反乱を起こして独立し(カンダハール王国)、サファヴィー朝領への数次にわたって進攻した上、1722年に首都のイスファハーンを包囲して陥落させた[2]。ギルザイの族長ミール・マフムード英語版はスルターン・フサインを退位させ、自らペルシアのシャーを名乗った[2]。シャー位はその後の1725年にマフムードの従兄弟にあたるアシュラフにわたる[2]

タフマースプ王子は、イスファハーン攻囲戦のさなかに太子に指名され、カズヴィーンに避難した[1]:124。イスファハーンが陥落すると、その直後からイラン全土にはサファヴィー朝の後継を自認する勢力が林立した[3]。当時18歳の若者であったタフマースプもカズヴィーンで、バフティヤーリーをはじめ、テュルク系カージャール族やアゼリー(アゼルバイジャン人)、グルジー(グルジア人)の支持を受けて自らのシャー位を宣言した(シャー・タフマースブ2世)[3]。その後、タフマースプは、イラン高原の北東辺、マシュハド北方のアフシャール族の族長であったナーディル・クリー・ベグ(のちのナーディル・シャー)の軍事的後ろ盾を得る[3]。ナーディルは「タフマースプ・クリー・ハーン」(タフマースプのしもべ)と名乗り、タフマースプの権威を借りて政治的、軍事的勢力を伸張させた[3]

ナーディル率いるタフマースプ軍は、1729年5月にヘラートアブダーリー族(ギルザイ族とは対抗する関係にあったアフガーン人の部族)をやぶり、さらに同年9月、ダームガーン近くのメフマーンドゥーストの原でアシュラフ率いるギルザイ族軍と戦い、勝利を収めた[3]。タフマースプは1729年の11月ごろ、7年ぶりにイスファハーンに入城した[1]:125

タフマースプは引き続いて、オスマン帝国に奪われたアーザルバーイジャーン地方へ遠征した(1731年のタフマースプ2世の遠征英語版[4]:319-324。これに失敗したタフマースプはナーディルにより退位させられた[3][4]:319-324。ナーディルは、シャー位を生後8ヶ月のタフマースプの息子(アッバース3世)に継がせ、自らは摂政(ヴァキールッダウラ)として権力を掌握した[3][5]

その後のタフマースプと息子アッバースはホラーサーン地方で生かされていたが、1740年にインドでナーディル・シャー死亡の噂が広まり、親サファヴィー家を旗印にした反乱の機運が生じたため、ナーディルの息子であるレザークリー・ミールザー英語版が差し向けたカージャール族の男により殺害された[5]

出典

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  1. ^ a b c Newman, Andrew J (2012). Safavid Iran: Rebirth of a Persian Empire. I.B.Tauris. ISBN 9780857716613. https://books.google.co.jp/books?id=KPgBAwAAQBAJ 
  2. ^ a b c Balland, D. (17 August 2011) [December 15, 1987]. "AŠRAF ḠILZAY". Encyclopaedia Iranica. 2018年8月9日閲覧
  3. ^ a b c d e f g Tucker, Ernest (15 August 2006). "NĀDER SHAH". Encyclopædia Iranica. 2018年8月15日閲覧
  4. ^ a b Fisher, William Bayne; Avery, P.; Hambly, G. R. G.; Melville, C. (1991-10-10). The Cambridge History of Iran, Volume 7. Cambridge University Press. ISBN 0521200954. https://books.google.co.jp/books?id=H20Xt157iYUC&pg=PAPA322 
  5. ^ a b Savory, R. M. (10 January 2014). "'Abbas III". Encyclopædia Iranica. Vol. I. p. 76. 2018年8月15日閲覧