タウロイ
タウロイ(ギリシャ語:Ταῦροι)は、古代ギリシア時代にクリミア半島南部に住んでいたスキタイ系民族。クリミア半島の古名であるタウリカ、タウリス、タヴリダはこの民族名に由来する。
歴史
編集ダレイオス1世のスキタイ征伐
編集アケメネス朝のダレイオス1世(在位:前522年 - 前486年)はボスポラス海峡を渡ってトラキア人を征服すると、続いて北のスキタイを征服するべく、イストロス河[1]を渡った。これを聞いたスキタイは周辺の諸民族を糾合してダレイオスに当たるべきだと考え、周辺諸族に使者を送ったが、すでにタウロイ,アガテュルソイ,ネウロイ,アンドロパゴイ,メランクライノイ,ゲロノイ,ブディノイ,サウロマタイの諸族の王は会合し、対策を練っていた。スキタイの使者は「諸族が一致団結してペルシアに当たるため、スキタイに協力してほしい」と要請した。しかし、諸族の意見は二手に分かれ、スキタイに賛同したのはゲロノイ王,ブディノイ王,サウロマタイ王のみであり、タウロイらその他の諸族は「スキタイの言うことは信用できない」とし、協力を断った。
習俗
編集古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは『ヒストリアイ(歴史)』において次のように記している。
タウロイは難破漂流した者や、黒海上で襲って捕らえたギリシア人を「処女神」の生贄とする。まず、型のように浄祓を行った後、生贄の頭を棍棒で打つ。次に胴体を神殿の立っている断崖の上から突き落とし、首は棒に刺しておく。という説もあるが、別の説では首については同様であるが、胴体は崖から落とすのではなく、地中に埋めるという。タウロイ自身の言うところでは、生贄を供える女神はアガメムノンの娘イピゲネイアであるという[2]。また、敵の捕虜については、捕らえた者が首を刎ねて家に持ち帰り、屋上(煙突の上)に長い棒に刺して高く掲げておく。この首が守護者として屋敷全体を見張ってくれるように、高く掲げておくのだという。彼らは掠奪と戦争を生活の手段にしているのである。 — ヘロドトス『歴史』巻4-103
また、紀元前1世紀の古代ローマの歴史家ストラボンは『地理誌』において、次のように記している。
スキュタイ族系のタウロイ族が港一帯に海賊団を組織して、この港へ難破する船乗りたちを襲う。港の名をシュンボロン・リメン(商人港)という。 — ストラボン『地理誌』第4章
地理
編集タウロイの居住地は現在のクリミア半島南部にあたり、北の王族スキタイ[3]の領土と隣接していた。また、彼らの暮らす山岳地帯にはトラペズス山という山がある。