ソー (オー=ド=セーヌ県)
ソー (Sceaux)は、フランス、イル=ド=フランス地域圏、オー=ド=セーヌ県のコミューン。
Sceaux | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | イル=ド=フランス地域圏 |
県 (département) | オー=ド=セーヌ県 |
郡 (arrondissement) | アントニー郡 |
小郡 (canton) | 小郡庁所在地 |
INSEEコード | 92071 |
郵便番号 | 92330 |
市長(任期) |
フィリップ・ローラン (2008年-2014年) |
自治体間連合 (fr) | メトロポール・デュ・グラン・パリ |
人口動態 | |
人口 |
19,679人 (2007年) |
人口密度 | 5466人/km2 |
住民の呼称 | Scéens |
地理 | |
座標 | 北緯48度46分43秒 東経2度17分26秒 / 北緯48.7786度 東経2.2906度座標: 北緯48度46分43秒 東経2度17分26秒 / 北緯48.7786度 東経2.2906度 |
標高 |
最低:53m 最高:103 m |
面積 | 3.6km2 (360ha) |
公式サイト | sceaux.fr |
地理
編集パリ南部郊外に位置し、ウルポワ地方(fr)に属する。フランス国道ゼロ地点であるノートルダム・ド・パリから南西9.8kmにあたる[1]。ソーは、フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の1つである、パリ南部緑地回廊(fr)で二分されている。主に住宅地として利用される[2]。また、1794年に創設されたフェイアンヌ陶器工場が置かれている[2]。
歴史
編集ソーにキリスト教の教区があったのは、1203年の法令において証明されている。この時、シャトネ(現在のシャトネ=マラブリー)の教区からソーは独立したとある。1214年、最初の教会がソーに建てられた[3]。
ソーの土地のいくつかは封土として15世紀まで維持され、バイユ家がそれらを統一した。
ブール=ラ=レーヌおよびソーの領主であったジェヴル侯爵ルイ・ポティエは、妻がバイユ家の女子相続人であったことから領地を購入し、かつてバイユ家の邸宅があった場所に1597年頃大きな家を建てた。この邸宅は後の所有者となったジャン=バティスト・コルベールによって手が加えられている。これらの土地にルネ・ポティエは1640年に『死の海』という名の池をつくらせた。
1670年からソーの荘園の領主となったコルベールは、1476年から廃墟のままであった教会を再建した。そして近接する土地を買って荘園を拡大した。彼はすでにあった邸宅を拡張させ、アンドレ・ル・ノートル設計のフランス庭園に変えた。フランス革命そして、1793年の国家による財産没収と国有化がなされるまで、ソーの荘園はコルベールの子孫から切り離されることはなかった。最後の領主は、ブルボン=パンティエーヴル公ルイ・ジャンであった。革命後、コルベールが建てた城は取り壊された[4]。現在のソー公園に残る城館は、1858年に第2代トレヴィーズ公爵が、かつてコルベールの城があった場所に建てたものである。
1793年当時、ソー=パンティエーヴル(Sceaux-Penthièvre)と呼ばれていた地名はソー=リュニテ(Sceaux-l'Unité)と変えられた。
1846年、ソー線が開業した。
交通
編集- 道路 - D60、D67
- 鉄道 - RER B線ソー駅、ロバンソン駅。
出身者
編集- マリー・ジョルジュ・ビュフェ - 政治家
- アラン・ドロン - 俳優