セオドア・ヴァン・カーク

セオドア・ヴァン・カークTheodore Van Kirk1921年2月27日 - 2014年7月28日[1])は、アメリカ合衆国退役軍人広島市原子爆弾リトルボーイ」を投下したB-29エノラ・ゲイ号乗組員の最後の生存者だった。

セオドア・ヴァン・カーク
Theodore Van Kirk
左からカーク、ティベッツフィアビー
渾名 Dutch
Ted
生誕 (1921-02-27) 1921年2月27日
ペンシルベニア州ノーサンバーランド
死没 (2014-07-28) 2014年7月28日(93歳没)
ジョージア州ストーンマウンテン
所属組織 アメリカ陸軍航空軍
軍歴 1941 - 1946
最終階級 少佐
勲章 シルバースター
殊勲飛行十字章
エア・メダル
テンプレートを表示
署名
広島市への原爆投下後(写真中央、1945年8月6日)
ウィキペディアへ、ダッチ・ヴァン・カーク、エノラ・ゲイ、広島」(2010年8月31日、テキサス州ダラスにて)

来歴・人物

編集

1941年10月、航空士官候補生訓練課程(アメリカ陸軍航空軍)英語版に参加。後に配属された部隊には後にエノラ・ゲイに同乗するポール・ティベッツトーマス・フィアビーが居た。カークの操縦する輸送機にはマーク・W・クラークや、軍人時代のアイゼンハウアーなどが搭乗した。

広島への原爆投下

編集

1945年8月6日、エノラ・ゲイ航法士として広島市への原爆投下に参加。2007年から2013年にかけて毎年行われたインタビューにて当時をこのように回想していた。

原爆は戦争の終結を早め、多くの人の命を救った。投下せずに、本土上陸作戦を実施していたら凄惨な戦いになっていただろう。
…日本は少なくとも6カ月前には降伏しているべきだった。空軍力も海軍力も失い、勝つ見込みが全くなかったことは、軍も分かっていたはずだ。日本の指導者がなぜかたくなに降伏を拒んで戦争を続け、国民をこんなひどい目に遭わせたのか理解できない

原爆を「2つの害悪のうち小さい方(大きい方は1945年11月に計画されていた米国による本土上陸作戦を指す)」と表現するなど、原爆投下を正当化するその見解はトルーマン大統領をはじめ米国政府の公式見解と同様のものであり、その後のインタビューでも一貫してぶれることは無かった。「気の毒(sorry)なことをした」とも語っているが「謝罪(apology)」という意味ではないという。しかしながら、「同じ過ちを繰り返してはならない」と語っていた[2]

第二次世界大戦終戦後、ビキニ環礁で行われた核実験クロスロード作戦に参加した。

除隊後

編集

1946年、退役。バックネル大学にて化学工学学士号理学修士号を取得後、デュポンに就職[2]。同社で30数年務め、この間、4人の子供を育てた[2]2010年には別のエノラ・ゲイ搭乗員が死去したため「最後の生存者」となった。後年は戦争体験の語り部としても活動し、ヴァンカークはその理由について「学生に話をするのは、彼らが同じ過ち(the same mistake)を繰り返さないために、戦争で何が起こったのかを伝えるためだ。彼らが将来、原爆を落とさないように」とも述べていた[2]。2014年死去。93歳没。

出演作品

編集

出典

編集
  1. ^ 朝日新聞 2014年7月30日付夕刊壱面
  2. ^ a b c d エノラ・ゲイ元航空士が遺した、原爆の「過ち」と誓い”. 日本経済新聞 (2015年8月6日). 2022年1月16日閲覧。

外部リンク

編集