スーザン・B・アンソニー
スーザン・ブローネル・アンソニー(Susan Brownell Anthony, 1820年2月15日 - 1906年3月13日)は、アメリカの公民権運動の指導者で、エリザベス・キャディ・スタントンと共にアメリカ合衆国における女性参政権獲得のために活動した人物。
マサチューセッツ州アダムスのクエーカー教徒の家庭の娘として生まれる。彼女の誕生後間もなく、アンソニー家は、ニューヨークに引っ越した。1845年以降は、ニューヨーク州モンロー郡ロチェスターに住んだ。ロチェスターに住んでいた間に彼女はユニテリアン教会に通うようになる。
アンソニーは、最初の教育を、彼女の父が自分の子どもたちと近所の子どもたちのために営んだ学校で学んだ。17歳から32歳までは、自らも様々な学校で教鞭をとった。それに続く10年間、アメリカでは南北戦争が勃発し、彼女はニューヨークで奴隷制反対、禁酒運動などで傑出した役割を演じ、1852年には、アメリカで州レベルでは初めての禁酒協会を設立している。1856年には、アメリカ奴隷制反対協会のニューヨーク州の代議員に選出された。
1854年以後、アンソニーは、もっぱら女性の権利の拡張のための運動に全力を傾注し、両性の完全に対等な権利の実現のための最も辣腕にして、熱烈な運動家で、その雄弁な街頭演説家にして著述家として知られるようになる。
アンソニーは堕胎にも強く反対し、それを女性の男性への従属の証とみた。1868年-1870年、彼女はニューヨークで発行されていた週刊新聞「The Revolution」の経営に携わった。編集者がスタントンで、新聞のモットーは次のようなものであった。
- 「真の共和国とは、-男性には彼らの権利を、そしてそれ以上ではなく、女性にも彼女らの権利を、そしてそれ以下でもなく」
1872年11月5日に行われた大統領選挙の投票に参加するために、アンソニーはアメリカ合衆国憲法修正第15条を提案した。少なくとも彼女の手になるといわれるそれにより、アンソニーは11月18日召喚状を送られ、1873年6月18日、100ドルの罰金刑を科されることになった。しかし、彼女は、それを支払うことを拒否した。裁判では、マチルダ・ジョスリン・ゲイジが弁護に立ち、裁かれるのはアンソニーではなく、むしろ合衆国なのだと訴えた。
スタントン、ゲイジ、そしてイーダ・ハステッド・ハーバーと共に、アンソニーは、『女性参政権の歴史』(全4巻、ニューヨーク、1884-1887年)を出版している。彼女は、女性の権利の擁護者として知られ、アリゾナ州で禁酒運動の先頭に立っていたジョセフィン・ヴラウリー・ヒューズの友人の1人でもあった。
アンソニーは、ロチェスターで、1906年3月13日に亡くなった。彼女の墓所はロチェスターのマウント・ホープ墓地にある。アンソニーは、「われらすべての母」(List of people known as the father or mother of something<"The Mother of us all.")として知られている。
LIFE誌が1999年に選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。この100人中アメリカ人と分類(1人で複数の国の人物とされるケースもある)されるのは22人にすぎず、アンソニーがアメリカ社会ではたいへん著名な人物であることが傍証される。
参考文献
編集- Mrs Ida Husted Harper's "Life and Work of Susan B. Anthony" (3 vols., Indianapolis, 1898-1908)
外部リンク
編集- Rutgers: Stanton and Anthony Archive
- The Life and Work of Susan B. Anthony (Volume 1 of 2), by Ida Husted Harper, from Project Gutenberg
- First Unitarian Church
- Susan B. Anthony House Website