スティーヴ・ディッコ

アメリカンコミックの作画家・原作者 (1927-2018)

スティーヴン・J・ディッコ(Stephen J. Ditko[1][ˈdɪtk]1927年11月2日2018年6月29日ごろ)はアメリカンコミック作画家原作者マーベル・コミックス社でスタン・リーとともにスパイダーマンドクター・ストレンジのキャラクターを創作し、それらのシリーズの作画を行ったことで知られる。

スティーヴ・ディッコ
Steve Ditko
高校上級生だったころのディッコ(1945年)
高校上級生だったころのディッコ(1945年)
生誕 (1927-11-02) 1927年11月2日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ペンシルベニア州ジョンズタウン
死没 2018年6月29日ごろ(90歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク
代表作 スパイダーマン
ドクター・ストレンジ
クリーパー英語版
ホーク&ダブ英語版
ミスターA英語版
クエスチョン
キャプテン・アトム英語版
ブルービートル英語版
テンプレートを表示

美術学校でバットマンの作画家ジェリー・ロビンソンから指導を受けた。1953年にインカーとしてジョー・サイモンジャック・カービーのスタジオに入ったのがプロ活動の始まりで、スタジオの同僚モート・メスキンからも影響を受けた。その時期にチャールトン・コミックスと関係を結び、後年に至るまでSF、ホラー、ミステリのジャンルで作品を提供したほか、1960年には他の作家とスーパーヒーローのキャプテン・アトムを共作した。

1950年代にマーベル社の前身アトラス・コミックスで活動し、その後マーベルで『アメイジング・スパイダーマン』や、『ストレンジ・テイルズ』誌の連載「ドクター・ストレンジ」の作画を一手に引き受けるなど、重要な作品を多く残した。しかし1966年にマーベル社を去った。その決定的な理由は明かされていない。

その後はチャールトンとDCコミックスで活動を続け、歴史の長いキャラクターのブルービートルを再生させたほか、クエスチョン、クリーパー、シェイド・ザ・チェンジングマン、ホーク&ダブなどの新キャラクターを制作した(共作も含む)。また独立系の小出版社でもコミックを描くようになり、アイン・ランドが唱えたオブジェクティビズム思想に強く影響されてミスターAというキャラクターを作り出した。

ディッコは作品を通じて自己を表現することを好み、ほとんどインタビューを受けなかった。コミック界で名誉あるジャック・カービー殿堂(1990年)およびウィル・アイズナー賞殿堂(1994年)に選出されている。

生い立ち

編集

スティーヴン・J・ディッコは1927年11月2日にペンシルベニア州ジョンズタウンにおいて[2]、スロヴァキア系アメリカ人一世の夫婦の間に生まれた[3]。父スティーヴンは製鋼所英語版に勤める大工の親方で美術の才に恵まれており、母アンナはホームヘルパーだった。労働者階級の夫婦は、第2子スティーヴのほか、その姉アンナ・マリー[3]、妹エリザベスと弟パトリックを育てた[1]。スティーヴの父は新聞のコミック・ストリップ、特にハル・フォスターの『プリンス・ヴァリアント英語版』を愛読していた。父の好みを受け継いだスティーヴは、1940年にスーパーヒーローバットマンと出会い、またタブロイドサイズのコミックブックとして新聞の日曜版に付属していたウィル・アイズナーの『スピリット英語版』を読んでコミックへの興味を高めていった[4]

第二次世界大戦中、中学時代のディッコは、民間対空監視員が用いるドイツ航空機の木製模型をほかの生徒とともに作製した[4]。1945年にジョンストン・ハイスクールを卒業すると[4]、同年10月26日に陸軍に入隊し[3]、終戦後のドイツで兵役に就くかたわら軍機関紙にコミックを発表した[4]

アーティストとしての経歴

編集

プロデビュー前後

編集

除隊後、崇拝していたバットマンの作画家ジェリー・ロビンソン英語版がニューヨークの美術学校[† 1] で教鞭を取っていることを知った。ディッコは1950年にニューヨークに移り、復員兵援護法(GI法)による支援を受けて同校に入学した[5]。ロビンソンは若き日のディッコを「非常な努力家で、描くことに打ち込んでいた」、また「原作者と組んでも良かったし、自分で話やキャラクターを作るのも上手かった」[6] と語っている。ロビンソンはディッコが翌年に奨学金を受けられるように取り計らい[7]、「2年間にわたって、週に4回か5回、夜間に5時間ずつ教えた。濃密な時間だった」[8] という。ロビンソンは授業にコミックアーティスト編集者を招くことがあり、マーベル・コミックスの前身アトラス・コミックス英語版の編集者スタン・リーもその一人だった。ロビンソンによれば、リーがディッコの作品を見たのはそれが最初だった[8]

1953年初頭、ブルース・ハミルトンの原作によるSF作品 "Stretching Things" で初めてプロとしてコミックブックの作画を行った。同作はキー・パブリケーションズ英語版インプリントであるスタンモーのために描かれたが、スタンモーからエイジャックス-ファレル英語版社に売却され、Fantastic Fears 第5号(発行日表示1954年2月)でようやく日の目を見た[9][10]。実際に出版されたのはプロ第2作となる6ページの短編 "Paper Romance" の方が先だった。同作はキー社の別のインプリントであるギルモー・マガジンズが発行する Daring Love 第1号(1953年10月)に掲載された[9][11]

ほどなくしてディッコはジョー・サイモンジャック・カービーのスタジオに職を見つけた。二人はいずれも原作者兼作画家で、すでにキャプテン・アメリカなどのキャラクターを生み出していた。背景のインクペン入れ)担当として仕事を始めたディッコは、以前から尊敬していたモート・メスキンと同僚になり、絵を学ぶようになった。「メスキンは素晴らしかった」とディッコは回想している。「あんな絵を易々と描けるなんて信じられなかった。構図は力強く、ラフなペンシル画でも完成されていて、ごちゃごちゃさせずにディテールを描く。本当に好きだった」[12] ディッコがアシスタントとして関わったことが確定している作品には、カービーがペンシル(下絵)を描き、メスキンがディッコとともにインカーを務めた Captain 3-D 第1号(1953年12月、ハーヴェイ・コミックス英語版)がある[13]。ディッコが自身でペンシルとインクを行った第3作 "A Hole in His Head" は、サイモンとカービーのクレストウッド社英語版のインプリントであるプライズ・コミックスが出していた Black Magic 第4シリーズ3号(1953年12月)に掲載された[14]

後年まで続くチャールトン・コミックスとの関係はこのころに始まった。コネチカット州ダービーに位置するチャールトンは、歌詞の雑誌で知られる出版社の低予算部門だった。第1作となったのは The Thing! 第12号(1954年2月)で、ディッコは表紙のほか8ページの吸血鬼もの "Cinderella" を描いた。同社ではその後、1986年の倒産まで断続的にSFホラーミステリ作品を描き続けることになる。また Space Adventures 第33号(1960年3月)では原作者ジョー・ギルとともにキャプテン・アトム英語版を生み出した[15]

1954年の半ば、結核を患ったためチャールトンでの活動ばかりかコミックの仕事一切を休止してジョンズタウンの実家で療養した[16]

マーベル・コミックス

編集

健康を取り戻したディッコは1955年末にニューヨークに戻り[16]、マーベル・コミックスの前身であるアトラス・コミックスで仕事を始めた。『ジャーニー・イントゥ・ミステリー英語版』第33号(1956年4月)に掲載された4ページ作品 "There'll Be Some Changes Made" がアトラスでのデビュー作となった。同作はマーベルの Curse of the Weird 第4号(1994年3月)に再録されている。アトラス/マーベルでは『ストレンジ・テイルズ英語版』をはじめ、新しく創刊された『アメイジング・アドベンチャーズ英語版』、『ストレンジ・ワールズ英語版』、『テイルズ・オブ・サスペンス英語版』、『テイルズ・トゥ・アストニッシュ英語版』で盛んに作品を発表し、多くの名作を残すことになった。これらの雑誌の多くはカービーのモンスター物で始まり、ドン・ヘック英語版ポール・リーンマン英語版ジョー・シノット英語版らが落ちの効いたスリラーやSFを1・2編描き、ディッコと原作・編集のスタン・リーによるシュールな、ときに内省的な短編が最後を締めくくった[17]

リーとディッコの短編は非常な人気を集めたため、『アメイジング・アドベンチャーズ』誌は第7号(1961年12月)から路線を変更して同種の作品だけを載せるようになり、『アメイジング・アダルト・ファンタジー』と改名した。この名は「洗練された」作風を表そうとしたもので、キャッチフレーズも "The magazine that respects your intelligence"(知的な君たちのための雑誌)とされた。リーが2009年に回想するところでは、「当時よく思いついた、オー・ヘンリー風の結末をつけた奇妙な空想話」をディッコとともに「5ページの短い穴埋めコミック・ストリップ」に仕上げ、「わが社のコミックブックでページが余れば何にでも」載せたという。リーによればそれらの作品は、後に「マーベル・メソッド」と呼ばれるようになる制作体制(ライターがプロットを考え、作画家がそれをもとにコマ割りと作画を行い、最後にライターがセリフやナレーションを付ける)の草分けだった。「スティーヴにプロットを軽く説明すれば、あとは彼が全部やってくれた。私が伝えた大ざっぱな骨格から一流のコミック作品を生み出してくれる。私なんかが考えていたものよりはるかに出来のいいものを」[18]

スパイダーマンの誕生

編集

マーベル・コミックスの総編集長だったスタン・リーは「スパイダーマン」という名で「普通の若者」のスーパーヒーローを新しく登場させようと考え、発行人マーティン・グッドマン英語版から許可を得た上で[19]、マーベルの中でも指折りの作画家だったジャック・カービーに共作を持ちかけた。カービーはリーに答えて、自身も1950年代にシルバー・スパイダーかスパイダーマンという名のヒーローを構想していたと告げた。魔法の指輪から超能力を得た孤児の少年のキャラクターだった。コミック史家グレッグ・シークストンによれば、二人はその場でストーリー会議を始めた。話がまとまると、リーはカービーにキャラクターを仕上げて何ページか描いてみるよう指示した。翌日か翌々日にカービーが見せたストーリーの冒頭6ページについて、リーは「描き方が気に入らなかった。下手だったわけじゃないが…私が考えていたキャラクターじゃなかった。ちょっとヒーローらし過ぎた」と回想している[20]。ディッコは以下のように述べている。「スタンがカービーの原稿を見せてくれたけど、実際に出たスパイダーマンとは全然違うものだった。だいたい、スパイダーマンが描かれていたのはスプラッシュ(第1ページ)と、ウェブ・ガンを持ってジャンプしてくる最後のシーンだけだった。… 最初の5ページで描かれていたのは、家の中で主人公の男の子が魔法の指輪を見つけてスパイダーマンになるシーンだった」[21]

カービーに代わってディッコが描いたキャラクタービジュアルはリーを満足させた[22]。ただし、リーは後にディッコの表紙画を没にしてカービーのペンシルによる絵と入れ替えた。ディッコは1990年にスパイダーマンのデザインについて以下のように回想している。「まずやったのはコスチュームだ。外見はキャラクターにとって重要な部分だ。どんな格好にするか決めないと … ブレークダウン(ネーム)に取りかかれない。壁に貼りつく能力があるなら堅い靴やブーツはやめようとか、袖に隠れるリストシューターとホルスターに収めるウェブ・ガンのどっちにするかとか。… スタンが気に入るかはわからなかったが、顔が完全に隠れるマスクにした。顔が見えると子供だってことが一目瞭然だからね。謎めいた雰囲気も出るし」[23]

リアルタイムでのディッコの証言は希少だが、Comic Fan 第2号(1965年夏)ではゲイリー・マートンによる書面インタビューの中で、リーとの分担について「スタン・リーがスパイダーマンという名前を思いついた。コスチュームのデザインと、手首に仕込んだウェブ発射機やスパイダー・シグナルは私だ」と説明している。このときのディッコは「もっといい仕事が出てこない限り」スパイダーマンを描き続けるつもりだと語っていた[24]

スパイダーマンを作り出した時期のディッコは、美術学校以来の友人で著名なフェティッシュ・アーティストのエリック・スタントン英語版と共同でスタジオを構えていた[† 2]。スタントンは1988年のインタビューの中で、スパイダーマンの創造に自分はほとんど何の貢献もしていないと言いつつも、ディッコとともに第1号のストーリーボード(絵コンテ)作成を行ったことを語っている。「私もいくつかアイディアを出した。でも全体としてはスティーヴが自分で創りだしたものだ … 手首からウェブを撃つ仕掛けは私が考えたんだったかな」[26]

スパイダーマンが初めて印刷されたのはSF・ファンタジーのアンソロジー『アメイジング・ファンタジー英語版』の終刊号(第15号、1962年8月)だった。この号がトップセラーとなったことで、スパイダーマンは個人誌『アメイジング・スパイダーマン』を獲得した[27][28]。リーとディッコは同誌で共作を続け、スパイダーマンの代表的な敵役となるキャラクターを次々に生み出していった。第3号(1963年7月)ではドクター・オクトパス[29]、第4号(同年9月)ではサンドマン[30]、第6号(同年11月)ではリザード[31]、第9号(1964年3月)ではエレクトロ[32]、そして第14号(同年7月)ではグリーンゴブリンが誕生した[33]。ディッコはやがて、自身が作画と同時にプロット作成にも関与していること(マーベル・メソッド)をクレジットに反映させるよう要求した。リーはこれを認め、第25号(1965年6月)からディッコがプロット作成としてもクレジットされるようになった[34]

リー=ディッコ体制の『アメイジング・スパイダーマン』の中でも、三話構成のストーリー "If This Be My Destiny...!" の結末である第33号(1966年2月)は名作として知られている。この号には、大きな機械の下敷きとなったスパイダーマンが意志力と家族への思いを振り絞って脱出を果たす劇的なシーンがあった。コミック史の著作を持つレス・ダニエルズは「スティーヴ・ディッコはここで、スパイダーマンの窮地をこの上ない苦しみとして描いている。かつて救えなかった伯父と、守ると誓った伯母の幻までが彼を襲う」と書いている[35]。コミック作家ピーター・デイヴィッド英語版は、「オリジン(誕生回)を除けば、『アメイジング・スパイダーマン』第33号のこの2ページは、おそらくスタン・リー/スティーヴ・ディッコ期でもっとも愛されているシーンだ」という所感を述べている[36]。スティーヴ・サフェルは「ディッコが『アメイジング・スパイダーマン』第33号で描いたページ一杯の大ゴマは、シリーズの歴史を通しても際立って迫力あるもので、後年まで原作者や作画家に影響を与え続けた」と述べた[37]。マシュー・K・マニングは「リーによるこのストーリーの冒頭数ページにディッコが描いたイラストレーションは、スパイダーマンの歴史を象徴するシーンの一つとなった」と書いた[38]。このストーリーはまた、2001年にマーベル読者が選ぶベスト100号[† 3] の第15位を占めた。その編集者ロバート・グリーンバーガー英語版はストーリー紹介として「冒頭の5ページは現代のシェイクスピアだ。[主人公の]パーカーの独白が次のアクションへの期待を高めていく。ディッコは劇的なテンポと語りにより、あらゆるコミックの中でも抜きんでて偉大なシークエンスを作り出したのだ」と書いた[39]。このシークエンスは2017年の映画『スパイダーマン:ホームカミング』でも引用されている[40]

ドクター・ストレンジ、その他のキャラクター

編集

インクレディブル・ハルク』最終号(第6号、1963年3月)の作画を行ったのに続いて、『ストレンジ・テイルズ』第110号(1963年7月)で魔術師ヒーローのドクター・ストレンジを作り出した[41][42][43]。ディッコとリーはその後しばらくして、アンソロジー誌『テイルズ・トゥ・アストニッシュ』第60号(1964年10月)で短編連載としてハルクを復活させた。ディッコはインカーのジョージ・ルーソスと組んで第67号(1965年5月)までペンシラーを務めた。第62号(1964年12月)ではハルクの宿敵リーダーをデザインした。

ディッコは『テイルズ・オブ・サスペンス』誌で連載されていたアイアンマンのペンシルを第47号から第49号まで(1963年11月–1964年1月)担当した。インカーは各号で異なる。第47号では、現行の配色でもある赤と金のアイアンマン・アーマーの初期版が登場した。ただしそれをデザインしたのがディッコなのか、あるいはメインのキャラクターデザイナーで表紙のペンシルも描いていたジャック・カービーなのかは明らかになっていない。

『アメイジング・スパイダーマン』での業績に隠れがちではあるが、「ドクター・ストレンジ」におけるディッコの作画も同程度に高く評価されてきた。そのシュルレアルで神秘的な世界像と、どんどんサイケデリックになっていく表現は大学生の人気を集めた。「ドクター・ストレンジの読者は、マーベル関係者は「ヘッド(麻薬常用者)」ばかりだと思い込んでいた」と、当時アシスタント・エディターでドクター・ストレンジの原作を書いたこともあるロイ・トーマス英語版は1971年に語っている。「そういう人たちは、自分でもマッシュルームをキメて似たような体験をしていたからね。でも … 私は幻覚剤をやらないし、アーティストたちもやっていないと思うよ」[44]

やがてリーとディッコは、ストレンジをいっそう抽象的な方向に押し進めることになる。『ストレンジ・テイルズ』第130号から146号まで(1965年3月 – 1966年7月)の17号にわたる壮大なストーリーで、リーとディッコは宇宙的な存在であるエターニティ英語版を登場させた。エターニティはこの世界そのものの化身であり、宇宙空間を輪郭で囲ったような姿を持つ[45]。歴史家ブラッドフォード・W・ライトは以下のように説明する。

スティーヴ・ディッコが同作で行った作画は彼としてもシュルレアルの極で、幻覚体験を与えるようなものだった。ドクター・ストレンジが冒険するのは、サルバドール・ダリの絵画にも似た、奇怪な世界やねじくれた次元である。… スタン・リーが子供時代に読んだパルプ小説の魔術師や同時代のビートニク文化から生まれたドクター・ストレンジは、若者のカウンターカルチャーが東洋神秘主義やサイケデリックに傾倒していく流れを見事に先取りしていた。ドクター・ストレンジはマーベルキャラクターの中で決して人気や知名度は高くなかったが、よくあるスーパーヒーロー物よりも歯応えのある作品を求めていた読者の間に地歩を築いた。[46]

漫画家ファインアートも描いているセス英語版は、2003年にディッコの作風を次のように評した。「メインストリーム・コミックとしては異色だ。カービーの絵が圧倒的な迫力で少年の心をわしづかみにするのに対して、ディッコが描くのは繊細なカートゥーンだ。そこにはデザインの感覚があった。ディッコのデザインには華やかさがあるから、見ればすぐそれとわかる。丹念に描かれたディテールの豊かさはほとんどサイケデリックなほどだ」[47]

マーベル離脱

編集

ディテールが効いていて憂鬱と不安を感じさせるディッコ独特の画風はどの作品を描いていてもすぐに見分けがつき、読者から強く支持された。特にスパイダーマンというキャラクターは、苦労の多い私生活も併せて、ディッコ自身の志向とうまく噛み合った。スタン・リーも38号にわたってディッコと共作を行う中でそれを認めるようになり、後半の号ではプロット作成のクレジットを彼に譲った。しかし、ディッコは4年にわたってスパイダーマンを描き続けたところでマーベルを離れた[48]

そのころディッコとリーは会話を交わすことがなくなっており、作画や編集に関する要求は第三者を介していた[49]。軋轢が生じた経緯はリーにも明らかではない。リーは2003年に「スティーヴとは結局一度も打ち解けたことがなかった」と述懐している[49]。不和の原因はグリーンゴブリンの正体について意見が対立したためだという通説があるが、ディッコは後にそれを否定し、リーが契約を破ったためだと語った[50]

スタンは何も知らなかったからね。私がスパイダーマンのストーリーと表紙に何を描いているか。[プロダクション・マネージャーの]ソル・ブロツキーが原稿を持っていってようやく知るんだ。[その後でリーがセリフを作る。] … だから意見が合うも合わないも、やり取り自体がなかった。 … グリーンゴブリンだろうが何だろうが問題が起きるはずがない。[そういう制作体制だったのは]第25号より前から、私が辞める号までだ[51]

スパイダーマンの作画を引き継いだジョン・ロミータ・Srは、2010年に証言録取書英語版の中で「[リーとディッコは]共作などできない関係になった。ほとんどどんなことでも意見が合わなかったから。文化、社会、歴史、すべてにおいて。キャラクターの扱いについても…」という記憶を語っている[52]

1966年7月にマーベル社から発行されたコミックブックの "Bullpen Bulletins英語版"(読者欄)ではディッコに友情のこもった別れの言葉が贈られた。一例として『ファンタスティック・フォー』第52号では「スティーヴから個人的な理由で辞めると聞いた。長年一緒にやってきたのに残念だけど、次の取り組みでも成功するよう、才能あるスティーヴのために祈っているよ」と書かれた[53]

チャールトン・コミックスとDCコミックス

編集

ディッコはチャールトンでの仕事を再開した。ページ単価は安いが、制作者の自由度は大きい会社だった。同社ではブルービートル英語版(1967年 - 1968年)[54]クエスチョン(1967年 - 1968年)などのキャラクターを手がけ、かつて1960年に共同制作したキャプテン・アトムにも復帰した(1965年 - 1967年)。ほかにも1966年から翌年にかけてウォレン・パブリッシング英語版のホラー誌 CreepyEerie で、アーチー・グッドウィン英語版などの原作を受けて、主にインクウォッシュの技法で16本の短編を描いた[55]

1967年、自身のオブジェクティビズム思想を完璧に体現したキャラクターであるミスターA英語版を作り出し、ウォーリー・ウッド英語版の独立系コミック witzend 第3号に登場させた。犯罪に対して強硬な姿勢は論議を呼んだが[要出典]、1970年代までミスターAのストーリー作品と1ページ作品を描き続けた[要出典]。その後2000年と2009年にもミスターAを描いている[要出典]

1968年にDCコミックスに移り、編集者マリー・ボルチノフ英語版の下、『ショーケース英語版』第73号(1968年4月)でドン・セガールとともに新キャラクタークリーパー英語版を制作した[56]。DCの重役で原作者でもあったポール・レヴィッツ英語版の所見では、「クリーパー」はディッコの作画により「そのときDCが出していたどんなタイトルとも似ないものになった」という[57]。『ショーケース』第75号(1968年6月)では、ライターのスティーヴ・スキーツとともにホーク&ダブ英語版のコンビを制作した[58]。このころ、ウォーリー・ウッドが成人読者を対象に刊行したインディペンデント・コミックの草分け Heroes, Inc. Presents Cannon(1969年)で、ウッドのインクと原作により巻頭作品の作画を行った[59]

DCでの活動は短期で終わり、クリーパーの個人誌 Beware the Creeper 全6号(1968年6月 - 1969年4月)を任されるも、最終号の半ばでDCを離れた。その理由は明かされていない。しかしディッコはDCで活動している間に、チャールトンの編集局員だったディック・ジョルダーノ英語版を同社に推薦した[60]。ジョルダーノは後にDCトップのペンシラーとなり、さらにインカー、編集者、そして1981年には編集長にまでなった。

DC離脱から1970年代の半ばまではチャールトンと小出版社やインディペンデント出版社でしか仕事をしなかった。この時期チャールトンのアートディレクターだったフランク・マクローリン英語版はディッコについて、「ダービーの小さいホテルにしばらく住んでいた。そのころのディッコは楽天的でユーモアのセンスがある男で、色分解英語版担当の女性にいつもお菓子なんかの贈り物を持ってきた」と述べている[61]

1974年にチャールトンで E-Man 誌のバックアップ(併録作品)としてリバティベルのストーリーを描き、キルジョイを生み出した。同社でSF・ホラー誌に多数の作品を描く一方で、マーベルの発行人だったマーティン・グッドマンが新規に立ち上げたアトラス/シーボード・コミックス英語版ではライターのアーチー・グッドウィンとともにヒーローのディストラクターを制作し、そのタイトル全4号(1975年2月 - 8月)でペンシラーを務めた。そのうち前半の2号はウォーリー・ウッドがインクを手がけた。Tiger-Man の第2号と第3号でも作画を行い、Morlock 2001 第3号ではインクのバーニー・ライトソンと組んだ[59]

後年

編集

1975年にDCコミックスに戻り、短命に終わった『シェイド・ザ・チェンジングマン英語版』(1977年 - 1978年)を立ち上げた[59][62]。シェイドは後にディッコの手を離れて、DCの成人読者向けレーベルヴァーティゴ英語版で復刊されることになる。原作者のポール・レヴィッツとは、全4号の剣と魔法のファンタジー『ストーカー英語版』(1975年 - 1976年)を共作した[63][64]。原作者のジェリー・コンウェイと組んで『マンバット』全2号の第1号を手掛けた[65]。またクリーパーを復活させた[66]。そのほかDCでは、1979年に短期間刊行されたエトリガン・ザ・デーモン英語版のバックアップシリーズやホラー・SFアンソロジーへの短編寄稿など様々な仕事を行った。編集者のジャック・C・ハリスによって『リージョン・オブ・スーパーヒーローズ』のゲスト作画家として何号か起用されたが、同誌のファン層からは必ずしも歓迎されなかった[67]。『アドベンチャー・コミックス英語版』第467号から第478号にかけて「スターマン英語版」(プリンス・ガヴィン期)を描いた[59][68]。その後DCを去って様々な出版社で仕事をしたが、1980年代半ばに一時的に復帰して、Who's Who: The Definitive Directory of the DC Universe (1985年 - 1987年)に自作のキャラクターのピンナップを4枚描いたほか、『スーパーマン』第400号(1984年10月)のピンナップや[69][70] 同時刊行のイラスト集に寄稿した[71]

1979年にマーベルに戻ると、ジャック・カービーから『マシンマン英語版』を引き継ぎ[72]、『マイクロノーツ英語版[73] や「キャプテン・ユニバース英語版」の作画を行うなど、1990年代末までフリーランスとしてマーベルでの仕事を続けた。1984年からは、宇宙ロボットが主人公のシリーズ『ロム英語版』の終刊まで2年にわたってペンシルを担当した。マーヴ・ウルフマン英語版とともに制作したコミック版『ゴジラ英語版』のストーリーは ”Dragon Lord" と改題されて Marvel Spotlight に掲載された[74][75]。ライターのトム・デファルコ英語版とともに『アメイジング・スパイダーマン・アニュアル』第22号(1988年)で新キャラクターのスピードボール英語版を登場させ[76]、その個人タイトルを10号にわたって描いた。

1982年、初期の独立系コミックレーベルパシフィック・コミックス英語版でもフリーランスとして仕事を始めた。最初に手掛けた Captain Victory and the Galactic Rangers 第6号(1982年9月)ではプロットと作画を担当し、スクリプトマーク・エヴァニエ英語版とともにスーパーヒーローのミッシングマンを作り出した。ミッシングマンの続編は Pacific Presents 第1号から第3号(1982年10月 - 1984年3月)に掲載された。第1号ではディッコがスクリプトも書いたが、残りの2号では長年の友人ロビン・スナイダーに後を譲った。パシフィックではほかに Silver Star 第2号(1983年4月)でザ・モッカーを作り出した[59]

エクリプス・コミックス英語版では Eclipse Monthly 第1号 - 第3号(1983年8月 - 10月)で自作のキャラクター「スタティック[† 4]」を主人公とする作品を描いた。第2号ではスーパーヴィランのエクスプローダーを登場させた。

ライターのジャック・C・ハリスとともにファースト・コミックWarp 第2号 - 第4号(1983年4月 - 6月)でバックアップ連載 "The Faceless Ones" を描いた。

ハリスやほかのライターと組み、アーチー・コミックスが1980年代に短期間出していたスーパーヒーロー系ラインの The Fly でフライ、フライガール、ジャガーのストーリーを数作描いた。ディッコはキャリア後期にはインカーの仕事をあまり行わなくなったが、The Fly 第9号(1984年10月)の「ジャガー」ではディック・エアーズのペンシルにペン入れを行った[59]ウェスタン・パブリッシング英語版は1982年に新しいSF誌 Astral Frontiers にディッコとハリスの連載を載せると発表したが、同誌が日の目を見ることはなかった[77]

1992年、原作者ウィル・マリーとともに女性ヒーローのスクイレルガール英語版を制作した。マーベル・コミックスのために作り出したオリジナルキャラクターとしては、もっとも後期の一人となる。スクイレルガールは Marvel Super-Heroes 第2シリーズ第8号、Marvel Super-Heroes Winter Special(1992年1月)でデビューした[78]

1993年、ダークホースコミックスで単号作品 The Safest Place in the World を描いた。ディファイアント・コミックス英語版のシリーズ Dark Dominion では、トレーディングカードセットとして発売された第0号の作画を行った。1995年、マーベルが出したテレビアニメ『ファントム2040英語版』のコミック版全4号でペンシルを描いた。このシリーズで描いたポスターではジョン・ロミータSrがインクを務めた。ファンタグラフィックス・ブックスはディッコの名を冠した季刊誌 Steve Ditko's Strange Avenging Tales を発刊したが1号限り(1997年2月)で終わった。その原因はディッコとファンタグラフィックスの間の諍いだとされるが、具体的なことは公になっていない[79]

メインストリームからの引退以降

編集

ニューヨーク・タイムズ』は2008年に以下のように評した。「70年代のディッコは時流に遅れた変人とみなされるようになっていた。80年代になると、木っ端仕事を請け負って回るディッコは業界にとって過去の人だった … [アイン・]ランドが書いたジョン・ゴールト[† 5] の例にならって、ディッコは金になる仕事を片手間でやっつけ、本当の関心はオブジェクティビストとしての難解な論説を小出版社から出すことに取っておいた。そしてその片手間仕事ときたら… ディッコがトランスフォーマーの塗り絵やビッグボーイのコミックを描くのを見ると、オーソン・ウェルズ冷凍エンドウマメを宣伝している英語版と聞いた時と同じ気持ちになった」[80]

ディッコは1998年にメインストリーム・コミック界から引退した[81]。マーベルやDCでの活動末期には、Marvel Comics Presents の連載「サブマリナー」のような歴史あるキャラクターや、『マイティ・モーフィン・パワーレンジャー』のような新しい版権キャラクターを手掛けていた。メインストリーム界で最後に生み出したキャラクターは、マーベルの Shadows & Light 第1号(1998年2月)に掲載された、レン・ウェインのスクリプトによるアイアンマンの12ページ作品 "A Man's Reach..." に登場したロングアームであった。最後に描いた作品はDCのニューゴッズを主役にした5ページ作品 "Infinitely Gentle Infinitely Suffering" で、インクはマイク・グレイによる。同作は『オライオン』(2000年 - 2002年)に掲載される予定だったが[82]、2008年になってからトレード・ペーパーバック Tales of the New Gods でようやく世に出た[82]

それ以来ディッコの単独作は、一般的な取次を介さず、長年の共作者・担当編集者だったロビン・スナイダーを通じて散発的に出版されるだけになった。スナイダーの出版物にはオリジナル作品もあれば、『スタティック』『ミッシングマン』『モッカー』など旧作の再刊もあった。2002年の Avenging World は30年にわたる短編とエッセイの集成だった[59]。2008年には数ページの新作イラストを収録した32ページのエッセイ The Avenging Mind が発行された。Ditko, Etc... は掌編と風刺漫画からなる32ページのコミックだった。さらにこの形式での刊行が続き、ヒーロー、ミス・イーリー、ケープ、マッドマン、グレイ・ネゴシエーター、!?、アウトラインといったキャラクターが生み出された[83]。ディッコは2012年にこれらの自己出版について「ほかに何もやらせてもらえなかったからやった」と述べている[84]。2010年には1973年のコミック「ミスターA」の新版や、ディッコが描いた表紙絵の選集 The Cover Series が、2011年には1975年のコミック作品 ...Wha...!? Ditko's H. Series の新版が出た[59]

DCからもハードカバー作品集が発行され、1978年に描いていた数篇の「失われた」作品も収録された。2010年の本 The Creeper by Steve Ditko には、未刊行に終わった『ショーケース』第106号に掲載される予定だったクリーパーのストーリーが[85]The Steve Ditko Omnibus Vol. 1(2011年)には『シェイド・ザ・チェンジングマン』の未刊行作品が収録された[86]ハルクヒューマン・トーチが登場するジャック・C・ハリスの原作による1980年代の作品は、マーベルから Incredible Hulk and the Human Torch: From the Marvel Vault 第1号として2011年8月に刊行された[87]

私生活

編集

2012年の時点でもマンハッタンミッドタウン・ウェスト地区で仕事を続けていた[84][88]

同名のスティーヴ・ディッコという甥は画家となった[49]。知られている限り結婚したことはなく、他界した時点で子供はいなかった[84][89]ウィル・アイズナーはかつてディッコに非嫡出子がいると発言したことがあるが[90]、この甥を誤認した可能性もある[84]

2012年に、その時点で公開されていた4編のスパイダーマン映画からまったく報酬を受けていないと発言した[84]。しかし、ディッコの隣人は彼が原作料の小切手を受け取っていたと証言している[91]。映画『ドクター・ストレンジ』の製作者はディッコに歓迎されないだろうと考え、連絡を取ることは控えた[89]

ディッコは2018年6月29日にニューヨークのアパートで意識不明の状態で発見された。警察は前日か前々日に死亡していたと結論づけた。死亡が確認された時点で90歳、死因は動脈硬化と高血圧による心筋梗塞と見られた[89]

人物

編集

インタビューの申し込みや公の場への招待はほとんど断っていた。1969年にその理由として「この仕事で読者に売っているのは、私という人間じゃなく描いた絵だ。私がどんなやつかは重要じゃない。重要なのは何を描くか、どれほど上手く描くかだ。私はコミック・アートでストーリーを作る。それが商品で、スティーヴ・ディッコはそのブランド名だ」と語っている[92]。とはいえ、ロビン・スナイダーのファンジン The Comics には多くのエッセイを寄稿している[93]

オブジェクティビズム(客観主義)の熱心な支持者でもあった[94]

1965年にファンジン Voice of Comicdom において、ファンが描いたコミック作品の人気投票企画に関して以下のように語った。「残念なことだ。今あるコミックのストーリーや描き方にはほとんど多様性がないので、君たちもその狭い枠内でしか創作しようとしない。たいていの読者にとって、一番好きな作品とは一番読みなれたものでしかない。読者の好みに従って構想を立てていたら、出てくる作品はどれもこれも同じになってしまう。君たちには、アイディアの限界を越えて、何にも縛られない自由なストーリーや描き方をみんなに示す素晴らしい機会が与えられている。それを無駄にしてどうする!」[95]

受賞

編集
  • 1962年、アリー賞英語版短編部門 (Amazing Fantasy #15, "Origin of Spider-Man")
  • 1963年、アリー賞アドベンチャー・ヒーロー・コミックブック部門 (The Amazing Spider-Man)
  • 1963年、アリー賞ヒーロー部門 (Spider-Man)
  • 1964年、アリー賞アドベンチャー・ヒーロー・コミックブック部門 (The Amazing Spider-Man)
  • 1964年、アリー賞ジャイアント・コミック部門 (The Amazing Spider-Man Annual #1)
  • 1964年、アリー賞ヒーロー部門 (Spider-Man)
  • 1965年、アリー賞アドベンチャー・ヒーロー・コミックブック部門 (The Amazing Spider-Man)
  • 1965年、アリー賞ヒーロー部門 (Spider-Man)
  • 1985年、イーグル賞英語版ロール・オブ・オナー[96]
  • 1987年、コミコン・インターナショナルインクポット賞
ディッコは授賞式に出席せず、前年に Ditko's World を発行したレネゲイド・プレスの発行人デニ・ルベールが代理を務めた。ディッコは賞を拒絶し、ルベールに送り返してこう述べた。「賞はアーティストを傷つけ、互いに競うようにさせる。この世にもっともひどい物だ。私の名前で賞を受けてくるとは、何てことをしてくれたんだ」ルベールはディッコの求めによって賞をコンベンション主催者に返還した[97]
  • 1990年、ハーベイ賞ジャック・カービーの殿堂に迎えられた。1994年にはアイズナー賞殿堂入り。
  • 2015年、インクウェル賞ジョー・シノット殿堂入り。

BBCドキュメンタリー

編集

2007年9月、ジョナサン・ロス英語版がホスト役を務める1時間のドキュメンタリー番組 In Search of Steve DitkoBBC Fourから放映された。ディッコがマーベル、DC、チャールトンで描いた作品のほか、ウォーリー・ウッドの witzend への寄稿や、オブジェクティビズムへの傾倒が紹介され、アラン・ムーアマーク・ミラージェリー・ロビンソン英語版スタン・リーらの証言も収録された。ロスは作家ニール・ゲイマンとともにニューヨークのオフィスにディッコを訪ねたが、撮影やインタビューは拒否された。しかしディッコは二人に貴重なコミックブックを提供した。番組の最後でロスはディッコと電話でも会話したことを明かし、ジョークとしてファーストネームで呼び合う仲になったと述べた[50]

主な作品

編集

特記しない限りペンシラーとしての作品である。ペン入れも自身で行うことが多いが、すべてではない。

マーベル・コミックス

Amazing Adult Fantasy #7–14 (1961–62) 以下に改題
Amazing Fantasy #15(スパイダーマン初登場)(1962)

DCコミックス

チャールトン・コミックス

ウォレン・パブリッシング

インディペンデント出版社

  • witzend #3, 4, 6, 7 (Wallace Wood) (1967–69)
  • Mr. A. (Comic Art Publishers) (1973)
  • Avenging World (Bruce Hershenson) (1973)(2002年のAvenging World はこの作品を含む作品集)
  • ...Wha..!? (Bruce Hershenson) (1975)
  • Mr. A. (Bruce Hershenson) (1975)

エース・コミックス

アトラス/シーボード

スター*リーチ・プロダクションズ

  • Imagine #4 (1978)

レネゲイド・プレス

  • Revolver #1–5 (1985–86)
  • Ditko's World featuring...Static #1–3 (1986)
  • Murder #1–3 (1986)

ダークホース・コミックス

  • The Safest Place... (1993)

ファンタグラフィックス・ブックス

  • Steve Ditko's Strange Avenging Tales #1 (1997)

ロビン・スナイダー

  • Ditko Package (1989)
  • The Mocker (1990)
  • Ditko Public Service Package (1991)
  • The Ditko Package series:
Steve Ditko's 160-Page Package (1999)
Steve Ditko's 80-Page Package: The Missing Man (1999)
Steve Ditko's 160-Page Package: From Charlton Press (1999)
Steve Ditko's 176-Page Package: Heroes (2000)
Steve Ditko's 32-Page Package: Tsk! Tsk! (2000)
  • Steve Ditko's Static: Chapters 1 to 14 plus... (2000)
  • Avenging World(1973年版の増補版)(2002)
  • Mr. A.(1973年版の改訂版)(2010)
  • Mr. A. #15(1990年ごろ発刊予定だったミスターAのシリーズの第1号に掲載予定だった2作品を収録)(2014)
  • The 32-page series:[83]
The Avenging Mind (2008)
Ditko, etc... (2008)
Ditko Continued... (2008)
Oh, No! Not Again, Ditko (2009)
Ditko Once More (2009)
Ditko Presents (2009)
A Ditko Act Two (2010)
A Ditko Act 3 (2010)
Act 4 (2010)
Ditko #5-Five Act (2010)
Act 6 (2011)
Act 7 Seven (2011)
Act 8 (2011)
A Ditko #14 (2011)
A Ditko #15 (2011)
#16: Sixteen (2012)
#17: Seventeen (2012)
Ate Tea N 18 (2013)
#9 Teen (2014)
#20 (2014)
#21 (2014)
#22 (2015)
#23 (2015)
#24 (2016)
#25 (2016)
#26 (2018)
  • The Four-Page Series #1–9(エッセイ作品)(2012–15)

日本語版

編集
  • 『スパイダーマン』第1巻、光文社(1978年)
Amazing Fantasy #15 収録
Amazing Fantasy #15 収録
Amazing Fantasy #15, The Amazing Spider-man #33 収録
Amazing Fantasy #15 収録
  • 『マーベルマスターワークス:アメイジング・スパイダーマン』、ヴィレッジブックス(2017年)ISBN-978-4864913423
Amazing Fantasy #15, The Amazing Spider-man #1-10 収録
  • 『絶対無敵スクイレルガール:けものがフレンド』、ヴィレッジブックス(2017年)ISBN-978-4864913560
Marvel Super-Heroes Vol.2 #8 収録

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ Cartoonists and Illustrators School 、現School of Visual Arts
  2. ^ スタジオを持っていた時期は1958年から1966年[25] もしくは1968年[26](証言により異なる)までで、マンハッタン43丁目8番街に位置していた。
  3. ^ en:100 Greatest Marvels of All Time
  4. ^ マイルストーン・コミックス英語版の同名キャラクターとは無関係である。
  5. ^ アイン・ランドがオブジェクティビズム思想に基づいて書いた小説『肩をすくめるアトラス』の主要登場人物。

出典

編集
  1. ^ a b Bell, Blake (2008). Strange and Stranger: The World of Steve Ditko. Seattle, Washington: Fantagraphics Books. p. 14. ISBN 1-56097-921-6 
  2. ^ Comics Buyer's Guide #1636 (December 2007) p. 135
  3. ^ a b c Bell, Strange and Stranger, Endnotes, p.1, citing 1920 and 1930 United States Census data. The family lists itself as Czechoslovakian in the latter census, following the dissolution of Austro-Hungarian Empire and the creation of Czechoslovakia in 1918.
  4. ^ a b c d Bell, Strange and Stranger, p. 15
  5. ^ Bell, Strange and Stranger, p. 16
  6. ^ Jerry Robinson interview, Alter Ego #38 (Aug. 2004), p. 9
  7. ^ Bell, Strange and Stranger, p. 19
  8. ^ a b Robinson, Jerry, "Student and Teacher", in Yoe, Craig, ed. The Art of Ditko (IDW Publishing, January 2010), ISBN 978-1-60010-542-5, p. 54
  9. ^ a b Bell, Strange and Stranger, p. 20
  10. ^ Fantastic Fears #5”. Grand Comics Database. 2018年10月27日閲覧。
  11. ^ Daring Love #1 at the Grand Comics Database
  12. ^ Theakston, Steve Ditko Reader, p. 3 (unnumbered)
  13. ^ Captain 3-D #1 (Dec. 1953) at the Grand Comics Database
  14. ^ Black Magic vol. 4, #3 [27] (Dec. 1953) at the Grand Comics Database
  15. ^ McAvennie, Michael (2010). “1960s”. In Dolan, Hannah. DC Comics Year By Year A Visual Chronicle. London, United Kingdom: Dorling Kindersley. p. 99. ISBN 978-0-7566-6742-9. "Captain Atom was born in a tale by artist Steve Ditko and writer Joe Gill." 
  16. ^ a b Bell, Blake, ed (2009). Strange Suspense: The Steve Ditko Archives Vol. 1. Seattle, Washington: Fantagraphics Books. p. 10. ISBN 978-1-60699-289-0 
  17. ^ Brevoort, Tom (2008). “1950s”. In Gilbert, Laura. Marvel Chronicle A Year by Year History. London: Dorling Kindersley. p. 73. ISBN 978-0756641238 
  18. ^ Lee, Stan, "Introduction", in Yoe, p. 9
  19. ^ Lee, Stan, and Mair, George. Excelsior!: The Amazing Life of Stan Lee (Fireside, 2002), p.130. ISBN 0-684-87305-2
  20. ^ Theakston, Greg. The Steve Ditko Reader (Pure Imagination, Brooklyn, New York, 2002; ISBN 1-56685-011-8), p. 12 (unnumbered)
  21. ^ Theakston, Steve Ditko Reader, p. 13
  22. ^ DeFalco, Tom "1960s" in Gilbert (2008), p. 87: "Deciding that his new character would have spider-like powers, [Stan] Lee commissioned Jack Kirby to work on the first story. Unfortunately, Kirby's version of Spider-Man's alter ego Peter Parker proved too heroic, handsome, and muscular for Lee's everyman hero. Lee turned to Steve Ditko, the regular artist on Amazing Adult Fantasy, who designed a skinny, awkward teenager with glasses."
  23. ^ Ditko, Steve. "Jack Kirby's Spider-Man", Robin Snyder's History of Comics #5 (May 1990). Reprinted in Thomas, Roy, ed., Alter Ego: The Comic Book Artist Collection. Raleigh, North Carolina: TwoMorrows Publishing, 2001, p. 56. ISBN 978-1-893905-06-1
  24. ^ Ditko interview (Summer 1965). “Steve Ditko – A Portrait of the Master”. Comic Fan #2 (Larry Herndon, pub.) via Ditko.Comics.org (Blake Bell, ed.). 2008年4月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年4月3日閲覧。 Additional , February 28, 2012.
  25. ^ Bell, Blake. “Ditko & Stanton”. Ditko Looked Up. 2008年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月27日閲覧。
  26. ^ a b Theakston, Steve Ditko Reader, p. 14 (unnumbered, misordered as page 16)
  27. ^ Rhoades, Shirrel (2008). A Complete History of American Comic Books. Pieterlen and Bern, Switzerland: Peter Lang Publishing. p. 81. ISBN 978-1-4331-0107-6 
  28. ^ DeFalco "1960s" in Gilbert (2008), p. 91: "Thanks to a flood of fan mail, Spider-Man was awarded his own title six months after his first appearance. Amazing Spider-Man began as a bimonthly title, but was quickly promoted to a monthly."
  29. ^ DeFalco "1960s" in Gilbert (2008), p. 93: "Dr. Octopus shared many traits with Peter Parker. They were both shy, both interested in science, and both had trouble relating to women...Otto Octavius even looked like a grown up Peter Parker. Lee and Ditko intended Otto to be the man Peter might have become if he hadn't been raised with a sense of responsibility"
  30. ^ Manning, Matthew K. (2012). “1960s”. In Gilbert, Laura. Spider-Man Chronicle Celebrating 50 Years of Web-Slinging. London: Dorling Kindersley. p. 20. ISBN 978-0756692360. "In this installment, Stan Lee and Steve Ditko introduced Sandman — a super villain who could turn his entire body into sand with a single thought." 
  31. ^ Manning "1960s" in Gilbert (2012), p. 20: "The Amazing Spider-Mans sixth issue introduced the Lizard."
  32. ^ Manning "1960s" in Gilbert (2012), p. 24: "Electro charged into Spider-Man's life for the first time in another [Stan] Lee and [Steve] Ditko effort that saw Peter Parker using his brilliant mind to outwit a foe."
  33. ^ Manning "1960s" in Gilbert (2012), p. 26: "Spider-Man's arch nemesis, the Green Goblin, as introduced to readers as the 'most dangerous foe Spidey's ever fought.' Writer Stan Lee and artist Steve Ditko had no way of knowing how true that statement would prove to be in the coming years."
  34. ^ Kraft, David Anthony; Slifer, Roger (1983年4月). “Mark Evanier”. Comics Interview (Fictioneer Books) (2): pp. 23–34 
  35. ^ Daniels, Les (1991). Marvel: Five Fabulous Decades of the World's Greatest Comics. New York, New York: Harry N. Abrams. p. 129. ISBN 9780810938212 
  36. ^ David, Peter; Greenberger, Robert (2010). The Spider-Man Vault: A Museum-in-a-Book with Rare Collectibles Spun from Marvel's Web. Philadelphia, Pennsylvania: Running Press. p. 29. ISBN 0762437723 
  37. ^ Saffel, Steve (2007). “A Legend Is Born”. Spider-Man the Icon: The Life and Times of a Pop Culture Phenomenon. London, United Kingdom: Titan Books. p. 22. ISBN 978-1-84576-324-4 
  38. ^ Manning "1960s" in Gilbert (2012), p. 34
  39. ^ Greenberger, Robert, ed (2001-12). 100 Greatest Marvels of All Time. Marvel Comics. p. 67 
  40. ^ Kevin Feige and Jon Watts Address That Amazing Moment in 'Spider-Man: Homecoming'”. Fandango (2017年7月7日). 2018年10月26日閲覧。
  41. ^ Ditko, Steve (w). "Toyland: "Martin Goodman/Stan Lee"" The Avenging Mind (2008年4月). Robin Snyder and Steve Ditko
  42. ^ Stan Lee letter to Jerry Bails, January 9, 1963 (first paragraph of P.S.), published in The Comic Reader (16) February 23, 1963. Letter reprinted online. Archived from the original on April 9, 2014.
  43. ^ DeFalco "1960s" in Gilbert (2008), p. 93: "When Dr. Strange first appeared in Strange Tales #110, it was only clear that he dabbled in black magic and had the ability to project his consciousness into an astral form that could leave his physical body."
  44. ^ Green, Robin (1971-09-16). “Face Front! Clap Your Hands, You're on the Winning Team!”. Rolling Stone (via fan site Green Skin's Grab-Bag) (91): 31. オリジナルの2010-10-07時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20101007234130/http://www.reocities.com/area51/Chamber/8346/rs91.facefront.1.html 2011年9月14日閲覧。. 
  45. ^ Strange Tales #134 at the Grand Comics Database: "Indexer Notes: Part 5 of 17. First mention of Eternity. Strange would finally find it in Strange Tales #138 (November 1965)".
  46. ^ Wright, Bradford W. Comic Book Nation: Transformation of a Youth Culture, Baltimore, Maryland: Johns Hopkins University Press, 2001. ISBN 0-8018-7450-5. p. 213
  47. ^ Heer, Jeet. "Steve Ditko", The National Post, May 3, 2003, via JeetHeer.com. WebCitation archive.
  48. ^ DeFalco "1960s" in Gilbert (2008), p. 117: "To this day, no one really knows why Ditko quit. Bullpen sources reported he was unhappy with the way Lee scripted some of his plots, using a tongue-in-cheek approach to stories Ditko wanted handled seriously."
  49. ^ a b c Sinclair, Tom (2003年6月20日). “Still a Marvel!”. Entertainment Weekly. オリジナルの2011年1月25日時点におけるアーカイブ。. https://webcitation.org/5w0kCRgq4?url=http://www.ew.com/ew/article/0,,458355_2,00.html 
  50. ^ a b Ross, Jonathan, In Search of Steve Ditko, BBC Four
  51. ^ Lawrence, Christopher, "Who Is Steve Ditko?", Wizard #124 (Jan. 2002)
  52. ^ “Confidential Videotaped Deposition of John V. Romita”. Garden City, New York: United States District Court, Southern District of New York: "Marvel Worldwide, Inc., et al., vs. Lisa R. Kirby, et al.". (2010年10月21日). p. 45. https://docs.google.com/viewer?a=v&pid=explorer&chrome=true&srcid=0B_lZovnpi13JNWQ5MDJmOTgtZDMzYy00MzI3LTllYjctNmM0ZWE4NjgyOWEx&hl=en_US 
  53. ^ "Bullpen Bulletins", Fantastic Four #52 (July 1966). Marvel Comics.
  54. ^ McAvennie "1960s" in Dolan, p. 123: "After Ted Kord assumed the scarab as Blue Beetle in a back-up feature of Captain Atom #83, writer/artist Steve Ditko and co-writer 'D.C. Glanzman' (who was actually Ditko) launched the Blue Beetle into his own series."
  55. ^ Spurlock, J. David (2011). How to Draw Chiller Monsters, Werewolves, Vampires, and Zombies. New York, New York: Watson-Guptill. p. 32. ISBN 0-8230-9532-0. https://books.google.com/books?id=LkU3Qs66GlwC&pg=PA32&dq=Steve+Ditko+Warren+ink-wash&hl=en&ei=Ir-sTvuEDYrk0QGV-6CyDw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CDoQ6AEwAA#v=onepage&q=Steve%20Ditko%20Warren%20ink-wash&f=false 2011年10月29日閲覧. "The tonal ink-wash drawings he did for Creepy and Eerie magazines afforded him unique opportunities to exercise his mysterious prowess." 
  56. ^ McAvennie "1960s" in Dolan, p. 129 "Writer/artist Steve Ditko and co-scripter Don Segall gave [character Jack Ryder] more than the last laugh as the garishly garbed Creeper, one of DC's quirkiest protagonists."
  57. ^ Levitz, Paul (2010). “The Silver Age 1956–1970”. 75 Years of DC Comics The Art of Modern Mythmaking. Cologne, Germany: Taschen. p. 268. ISBN 9783836519816 
  58. ^ McAvennie "1960s" in Dolan, p. 130 "Brothers Hank and Don Hall were complete opposites, yet writer/artist Steve Ditko with scripter Steve Skeates made sure the siblings shared a desire to battle injustice as Hawk and Dove."
  59. ^ a b c d e f g h スティーヴ・ディッコ - Grand Comics Database
  60. ^ Evanier, Mark (2007年9月11日). “Ditko Doc”. "P.O.V. Online" (column). 2010年12月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年4月27日閲覧。
  61. ^ Cooke, Jon B., & Christopher Irving. "The Charlton Empire: A Brief History of the Derby, Connecticut Publisher", Comic Book Artist  #9, August 2000. Access date April 27, 2010. WebCitation archive.
  62. ^ McAvennie "1970s" in Dolan, p. 174 "Steve Ditko returned to mainstream comics with Shade, the Changing Man. Joined by writer Michael Fleisher, Ditko unveiled the story of Rac Shade, a secret agent-turned-fugitive from the extra-dimensional world of Meta."
  63. ^ Stalker at the Grand Comics Database
  64. ^ McAvennie "1970s" in Dolan, p. 164 "This sword and sorcery title by scripter Paul Levitz and artist Steve Ditko epitomized the credo 'Be careful what you wish for'. The series anti-hero was a nameless wanderer whose dreams of becoming a warrior brought him first slavery, then worse."
  65. ^ McAvennie "1970s" in Dolan, p. 168 "Thanks to his appearances in Detective Comics and Batman, Man-Bat's popularity soared to the point where writer Gerry Conway and artist Steve Ditko launched the [character] into his own series."
  66. ^ Manning, Matthew K. (2014). “1970s”. In Dougall, Alastair. Batman: A Visual History. London: Dorling Kindersley. p. 119. ISBN 978-1465424563 
  67. ^ Daudt, Ron E. (2010年). “Jack C. Harris Interview (Pt. 2)”. TheSilverLantern.com. 2012年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年3月20日閲覧。 “Some of the fans loved it and some hated it. Nobody was lukewarm about it. It was a very Ditko type of feeling. You hated it or you loved it and there was nothing in between.”
  68. ^ Manning, Matthew K. "1980s" in Dolan, p. 186 "The second [feature in Adventure Comics #467] debuted a new version of Starman by writer Paul Levitz and illustrator Steve Ditko."
  69. ^ Superman #400 at the Grand Comics Database
  70. ^ Addiego, Frankie (2013-12). “Superman #400”. Back Issue! (Raleigh, North Carolina: TwoMorrows Publishing) (69): 68–70. 
  71. ^ Giordano, Dick "Meanwhile" column, Jemm, Son of Saturn #2 (Oct. 1984) "We have another goodie for you! Also on this year's October schedule is the Superman #400 portfolio...The portfolio will have a full-color painted cover by Howard Chaykin and will contain 15 black-and-white plates by [artists including] Steve Ditko...."
  72. ^ Sanderson, Peter "1970s" in Gilbert (2008), p. 185: "Jack Kirby wrote and drew the initial nine issues of Machine Man. In August 1979, the series was revived by writer Marv Wolfman and artist Steve Ditko."
  73. ^ Lantz, James Heath (2014-10). “Inner-Space Opera: A Look at Marvel's Micronauts Comics”. Back Issue! (Raleigh, North Carolina: TwoMorrows Publishing) (76): 46–48. 
  74. ^ DeFalco "1980s" in Gilbert (2008), p. 197: "Tako Shamara became the Dragon Lord in Marvel Spotlight #5 by writer/editor Marv Wolfman and artist Steve Ditko."
  75. ^ Cronin, Brian (2009年12月24日). “Comic Book Legends Revealed #239”. Comic Book Resources. 2013年6月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年1月13日閲覧。 “The Godzilla fill-in by Marv Wolfman and Steve Ditko, ended up appearing in the pages of the re-launched Marvel Spotlight in 1980 as Dragon Lord, about a fellow who can control dragons.”
  76. ^ DeFalco "1980s" in Gilbert (2008), p. 238: "Editor-in-Chief Tom DeFalco thought Marvel should publish more titles starring teenagers...He wrote the basic scenario and character descriptions for a new series and hired Steve Ditko to design it."
  77. ^ “News from Hither and Yon: Ditko at Western”. The Comics Journal (Seattle, Washington: Fantagraphics Books) (71): 16. (1982-04). オリジナルの2012-08-19時点におけるアーカイブ。. https://webcitation.org/6A1iObsCM?url=http://www.tcj.com/archive-viewer-issue-71/?pid=4643 2012年8月19日閲覧。. 
  78. ^ Marvel Super-Heroes (Marvel, 1990 series) at the Grand Comics Database
  79. ^ Reynolds, Eric (2008年). “How I pissed off Steve Ditko”. Seattle, Washington: Fantagraphics Books. 2016年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月27日閲覧。 “About ten years ago we had the great fortune of publishing a new series by Mr. Ditko, Steve Ditko's Strange Avenging Tales...Ditko quit the series over other disagreements with Gary Groth, and only the first issue was published.”
  80. ^ Wolk, Douglas (2008年8月15日). “From Spider-Man to Ayn Rand”. The New York Times Book Review. オリジナルの2011年1月25日時点におけるアーカイブ。. https://webcitation.org/5w0jXpxGr?url=http://www.nytimes.com/2008/08/17/books/review/Wolk-t.html?_r=1 
  81. ^ Bell, Blake. Archive of “[web.archive.org/web/20080611122406/http://www.ditko.comics.org/ditko/news2002.html Ditko News, December 6, 1998]”. 2008年6月11日時点の[www.ditko.comics.org/ditko/news2002.html オリジナル]よりアーカイブ。2009年1月3日閲覧。 (requires scrolling down), Ditko Looked Up. Entry refers to Ditko's final mainstream comics work, a New Gods story that would remain unpublished for 10 years.
  82. ^ a b Franczak, B.. “Tales of the New Gods”. Ditko-Fever.com. 2010年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年4月27日閲覧。 Additional WebCitation archive of main page.
  83. ^ a b McCulloch, Joe (2013年6月10日). “Steve DItko Doesn't Stop: A Guide To 18 Secret Comics By Spider-Man's Co-Creator”. ComicsAlliance. 2015年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月27日閲覧。
  84. ^ a b c d e The secret hero of Spider-Man”. New York Post (2012年6月5日). 2013年10月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年6月5日閲覧。
  85. ^ Ditko, Steve (2010). The Creeper by Steve Ditko. DC Comics. ISBN 1-4012-2591-8 
  86. ^ Ditko, Steve (2011). The Steve Ditko Omnibus Vol. 1. DC Comics. ISBN 1-4012-3111-X 
  87. ^ Armitage, Hugh (2011年4月22日). “Lost Steve Ditko Comic Unveiled”. Digital Spy. 2012年3月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月26日閲覧。
  88. ^ Ross, Jonathan (2007年9月13日). “The Unsung Hero Behind Spider-Man”. The Guardian. 2008年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月23日閲覧。
  89. ^ a b c Lewis, Andy (2018年6月6日). “Steve Ditko, Spider-Man Co-Creator and Legendary Comics Artist, Dies at 90”. The Hollywood Reporter. 2018年8月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月6日閲覧。 “The New York Police Department confirmed his death to The Hollywood Reporter. No cause of death was announced. Ditko was found dead in his apartment on June 29 and it is believed he died about two days earlier.”
  90. ^ Eisner in Brownstein, Charles (2005). Eisner/Miller. Milwaukie, Oregon: Dark Horse Books. p. 128. ISBN 978-1569717554 
  91. ^ Reisman, Abraham (2016年11月16日). “The Creator of Doctor Strange Will Not See You Now: Marvel Comics legend Steve Ditko wants his work to stand for itself. If only it were that easy.”. Vulture.com. 2016年11月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月27日閲覧。 “'One time, about ten years ago, I accidentally got a piece of his mail,' she said, her eyebrows rising scandalously. 'I opened it and then realized it wasn't mine because that check had too many zeroes.' My body jerked up with shock — that contradicted Ditko's claim that he doesn't get a cut. I asked for more details. She said it was from a movie studio, and that when she gave it back to him, he just took it and said nothing. 'That's probably why he can work in that little office,' she said, and laughed. 'He's doing all right.'”
  92. ^ Ditko in “An Interview With The Man of Mystery...”. Marvel Main (Reprinted at Vicsage.com) (4). (1968年10月). オリジナルの2014年6月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140602021349/http://www.vicsage.com/wp/interviews/interview-with-ditko-from-marvel-main-4/  Also reprinted in Benton, Mike (1994). Masters of Imagination: The Comic Book Artists Hall of Fame. Attleboro, Massachusetts: Taylor Publishing. ISBN 978-0-87833-859-7 
  93. ^ Sodaro, Robert (2014年3月27日). “The Return of Steve Ditko and Robin Snyder”. Comics Bulletin. 2016年1月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月27日閲覧。 “We have been hard at work. Steve Ditko and I together have published more than 30 books, hundreds of articles and essays, the first-person history, The Comics! and our new publication, The Four-Page Series from 1988 to date.”
  94. ^ Young, Thom (2007年9月10日). “Ditko Shrugged: Part 1: Ayn Rand's Influence on Steve Ditko's Craft, Commerce, and Creeper”. Silver Soapbox (column), Comics Bulletin. 2011年1月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月27日閲覧。 (September 10, 2007). Archived from the original on April 5, 2010. "Part 3: Did Neal Adams Work on Beware the Creeper #5?" at the Wayback Machine (archived 2009-05-31) (September 14, 2007). Archived from the original on May 31, 2009. ; and "Part 4: After Ditko, the Drought" at the Wayback Machine (archived 2009-01-14) (September 22, 2007). Archived from the original Archived 2007-10-12 at the Wayback Machine. on January 14, 2009.
  95. ^ Ditko, Steve (1965年4月). “Editor's Mailbox”. Voice of Comicdom #4 (Bob Metz, ed.) via Ditko.Comics.org (Blake Bell, ed.). 2007年12月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月27日閲覧。 Punctuation verbatim. Additional , September 23, 2010.
  96. ^ Ditko, Steve, entry”. Who's Who of American Comics Books, 1928–1999. BailsProjects.com. 2012年2月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年4月27日閲覧。 .
  97. ^ Bell, Strange and Stranger, pp. 165–166
  98. ^ Detective Comics #487 - 2018年10月27日閲覧

外部リンク

編集