ジークベルト・タラッシュ
ジークベルト・タラッシュ(Siegbert Tarrasch、1862年3月5日 - 1934年2月17日)は、ドイツのチェスプレーヤー。ブレスラウ(現・ヴロツワフ)生まれ。ヴロツワフはポーランドの都市だが、タラッシュが生まれた当時のブレスラウはドイツの都市だった。
ジークベルト・タラッシュ | |
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フルネーム | Siegbert Tarrasch |
国 | ドイツ |
生誕 |
1862年5月5日 プロイセン王国 ブレスラウ |
死没 |
1934年2月17日(71歳没) ドイツ国 ミュンヘン |
タイトル | グランドマスター |
1914年に世界で最初にグランドマスターとなった5人のチェスプレーヤーの1人である(他の4人はエマーヌエール・ラスカー、ホセ・ラウル・カパブランカ、アレクサンドル・アレヒン、フランク・マーシャル)。
理論家として
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タラッシュは稀代の理論家として知られている。ヴィルヘルム・シュタイニッツの弱点である攻めが遅いこと[1]、攻撃開始までに敵にもその体制を整える余裕を与えたことに注目した[1]。そしてどうすればシュタイニッツの弱点を克服できるかを考えた[1]。
タラッシュの提唱した「中原の理論」は序盤においてe4、d4のどちらをポーンによって先に占めるかによってそのゲームの展開が決定されるかというものである[2]。タラッシュがチェスプレーヤーとしてデビューした当時のプレーヤーの間では1.e4と指すのが一般的だったが[3]、「中原の理論」によって1.d4の決定的ともいえる優位が示され[3]、チェス界を席捲した[3]。そのため当時は「白が1.d4と指したら、黒はもう戦わずして負けたようなものだ」と冗談半分に言われた[4]。
チェスでは白が先手を取るため[4]、20世紀に入り1.d4に対するいくつかの新しい防御法が発見されるまで[4]、チェス界は1.d4と指して白が勝つというゲーム展開によって支配されることになった[4]。20世紀に入って登場した1.d4に対する黒の応手として知られているのがニムゾ・インディアン・ディフェンスやキングズ・インディアン・ディフェンスであり、1490年頃から指されていたクイーンズ・ギャンビット[5]も20世紀に入り現代的に改良され、1.d4に対する黒の応手としてよく指されるようになった。
なおクイーンズ・ギャンビットの変化の1つである1.d4 d5 2.c4 e6 3.Nc3 c5はタラッシュ・ディフェンスと呼ばれる[6]。
実践家として
編集タラッシュは実践家としても大きな業績を残している。1908年に当時の世界チャンピオンであるエマーヌエール・ラスカーへの挑戦者となっている。結果はタラッシュの3勝5引き分け8敗に終わったが、世界チャンピオンへの挑戦者となったことは理論面だけではなく実践面でも功績を残したチェスプレーヤーであることを証明している。