ジョージ・ハワード (第6代カーライル伯爵)
第6代カーライル伯爵ジョージ・ハワード(英語: George Howard, 6th Earl of Carlisle, KG, PC, FRS、1773年9月17日 - 1848年10月7日)は、イギリスの政治家、貴族。
第6代カーライル伯爵 ジョージ・ハワード George Howard 6th Earl of Carlisle | |
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ジョシュア・レノルズ画の幼少期の肖像画 | |
生年月日 | 1773年9月17日 |
出生地 | グレートブリテン王国 イングランド・ロンドン |
没年月日 | 1848年10月7日(75歳没) |
死没地 | イギリス イングランド・ヨークシャー・ハワード城 |
出身校 | オックスフォード大学クライスト・チャーチ |
所属政党 | ホイッグ党 |
称号 | 第6代カーライル伯爵、ガーター勲章ナイト(KG)、王立協会フェロー(FRS)、枢密顧問官(PC) |
内閣 | カニング内閣 |
在任期間 | 1827年5月18日 - 1827年7月16日 |
内閣 |
カニング内閣、ゴドリッチ子爵内閣 グレイ伯爵内閣 |
在任期間 |
1827年7月16日 - 1828年1月 1834年6月5日 - 1834年7月 |
庶民院議員 | |
選挙区 |
モーペス選挙区 カンバーランド選挙区 |
在任期間 |
1795年1月10日 - 1806年11月17日 1806年11月12日 - 1820年3月17日 |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1825年9月4日 - 1848年10月7日 |
19世紀前期のホイッグ党政権(あるいはホイッグ党参加政権)で閣僚職を務めた。爵位を継承する1825年までモーペス子爵の儀礼称号を使用した。
経歴
編集1773年9月17日、第5代カーライル伯爵フレデリック・ハワードとその妻マーガレット(初代スタッフォード侯爵グランヴィル・ルーソン=ゴアの娘)の間の長男としてロンドンに生まれる[1][2]。
イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学[1][2]。
1795年1月にモーペス選挙区の補欠選挙でホイッグ党所属の庶民院議員に当選(1806年までここから当選し、1806年から1820年までカンバーランド選挙区から選出される)[1][2]。1797年にはチャールズ・ジェームズ・フォックスが提出した大逆罪と扇動罪の廃止を求める動議に反対した[2]。1799年にはアイルランドとの統合に賛成する演説を行っている[2]。
1806年2月には枢密顧問官(PC)に列するとともに、インド行政に関するコミッショナーとなるが、1807年に第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク内閣が成立すると辞職した[2]。
1824年11月にはヨークシャーの東リディング総督に就任[2]。
1825年9月4日に父の死去によりカーライル伯爵位を継承し、貴族院に議席を得た[2]。
1827年5月にはジョージ・カニング内閣の木材森林長官に就任した[3][2]。ついで同年7月に王璽尚書に転任。初代ゴドリッチ子爵フレデリック・ロビンソン(後のリポン伯爵)内閣でも留任し、1828年1月に同内閣が瓦解するまで務めた[2]。
1830年11月に第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ内閣が成立すると無任所大臣として入閣。1834年6月に王璽尚書の初代リポン伯爵フレデリック・ロビンソンがグレイ伯爵内閣を離脱したのに伴い代わって王璽尚書に就任したが[2][4]、翌月の同内閣の瓦解を機に政界引退した[2]。
1837年3月17日にガーター騎士団ナイト(KG)に叙せられた[2][5]。1848年10月7日にヨークシャーの邸宅ハワード城で死去した[2]。
栄典
編集爵位
編集- 1825年9月4日、第6代カーライル伯爵(1661年創設イングランド貴族爵位)[1]
- 1825年9月4日、第6代モーペスのハワード子爵(1661年創設イングランド貴族爵位)[1]
- 1825年9月4日、第6代ギルスランドのデイカー男爵(1661年イングランド貴族爵位)[1]
勲章
編集名誉職その他
編集家族
編集1801年に第5代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュの娘ジョージアナと結婚。彼女との間に以下の12子を儲けた[1]。
- ジョージ・ハワード(1802–1864):第7代カーライル伯爵
- キャロライン・ジョージアナ(1803–1881):ウィリアム・ラスセルズと結婚。
- ジョージアナ(1804–1860):初代ドーヴァー男爵ジョージ・エージャー=エリスと結婚。
- フレデリック・ジョージ(1805–1834)
- ハリエット・エリザベス・ジョージアナ (1806–1868):第2代サザーランド公爵ジョージ・サザーランド=ルーソン=ゴアと結婚。
- ウィリアム・ジョージ (1808–1889):第8代カーライル伯爵
- エドワード・グレンヴィル・ジョージ(1809–1880):初代レナートン男爵
- ブランチェ・ジョージアナ(1812–1840) 第7代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ と結婚。
- チャールズ・ウェントワース・ジョージ (1814–1879):初代ウェンズリーデール男爵ジェイムズ・パーカーの娘メアリーと結婚し、彼女との間に第9代カーライル伯爵ジョージ・ハワードを儲ける。
- エリザベス・ドロシー・アン(1816–1891) 第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイの息子フランシス・リチャードと結婚
- ヘンリー・ジョージ (1818–1879)
- メアリー・マチルダ・ジョージアナ(1823–1892):初代トーントン男爵ヘンリー・ラボシェールと結婚。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f g h i j Lundy, Darryl. “George Howard, 6th Earl of Carlisle” (英語). thepeerage.com. 2014年12月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o Barker, George Fisher Russell (1891). Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 28. London: Smith, Elder & Co. pp. 14–17. . In
- ^ "No. 18362". The London Gazette (英語). 18 May 1827. p. 1081.
- ^ "No. 19161". The London Gazette (英語). 5 June 1834. p. 1040.
- ^ a b "No. 19477". The London Gazette (英語). 21 March 1837. p. 769.
- ^ "No. 15887". The London Gazette (英語). 4 February 1806. p. 157.
外部リンク
編集- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by the Earl of Carlisle
議会 | ||
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先代 サー・ジェイムズ・アースキン準男爵 フランシス・グレッグ |
モーペス選挙区選出庶民院議員 1795年 – 1806年 同一選挙区同時当選者 サー・ジェイムズ・アースキン準男爵(1795–1796) ウィリアム・ハスキソン(1796–1802) ウィリアム・オード(1802–1806) |
次代 ウィリアム・オード ウィリアム・ハワード |
先代 ヘンリー・フィッチャー サー・ジョン・ロウザー準男爵 |
カンバーランド選挙区選出庶民院議員 1806年–1820年 同一選挙区同時当選者 サー・ジョン・ロウザー准男爵 |
次代 サー・ジョン・ロウザー準男爵 サー・ジョン・クリスチャン・カーウェン |
公職 | ||
先代 チャールズ・アーバスノット |
木材森林長官 1827年 |
次代 ウィリアム・スタージェス・ボーン |
先代 第4代ポートランド公爵 |
王璽尚書 1827年 – 1828年 |
次代 第2代エレンボロー男爵 |
先代 – |
無任所大臣 1830年 - 1834年 |
次代 – |
先代 初代リポン伯爵 |
王璽尚書 1834年 |
次代 第2代マルグレイブ伯爵 |
名誉職 | ||
先代 初代マルグレイブ伯爵 |
ヨークシャーの東リディング総督 1824年 – 1840年 |
次代 初代ウェンロック男爵 |
イングランドの爵位 | ||
先代 フレデリック・ハワード |
第6代カーライル伯爵 1825年 – 1848年 |
次代 ジョージ・ハワード |