ジョン・W・フォスター
ジョン・ワトソン・フォスター(John Watson Foster、1836年3月2日 - 1917年11月15日)は、アメリカ合衆国の外交官、軍人、弁護士、ジャーナリストである。ベンジャミン・ハリソン政権下で国務長官を務めた。
ジョン・W・フォスター John W. Foster | |
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アメリカ合衆国 第32代国務長官 | |
任期 1892年6月29日 – 1893年2月23日 | |
大統領 | ベンジャミン・ハリソン |
前任者 | ジェイムズ・G・ブレイン |
後任者 | ウォルター・グレシャム |
在スペイン・アメリカ大使 | |
任期 1883年6月16日 – 1885年8月28日 | |
大統領 | チェスター・アーサー グロバー・クリーブランド |
前任者 | ハンニバル・ハムリン |
後任者 | ジャベツ・キュリー |
在ロシア・アメリカ大使 | |
任期 1880年6月11日 – 1881年8月1日 | |
大統領 | ラザフォード・ヘイズ ジェームズ・ガーフィールド |
前任者 | エドウィン・W・ストウトン |
後任者 | ウィリアム・ヘンリー・ハント |
在メキシコ・アメリカ大使 | |
任期 1873年6月16日 – 1880年3月2日 | |
大統領 | ユリシーズ・グラント ラザフォード・ヘイズ |
前任者 | トーマス・H・ネルソン |
後任者 | フィリップ・H・モーガン |
個人情報 | |
生誕 | John Watson Foster 1836年3月2日 アメリカ合衆国 インディアナ州ピーターズバーグ |
死没 | 1917年11月15日 (81歳没) アメリカ合衆国 ワシントンD.C. |
政党 | 共和党 |
配偶者 | メアリー・パーク・マクファーソン(結婚 1859年) |
子供 | 2人 |
教育 | インディアナ大学ブルーミントン校 (BA) ハーバード大学 |
署名 | |
兵役経験 | |
所属国 | アメリカ |
所属組織 | アメリカ陸軍 • 北軍 |
軍歴 | 1861–1865 |
最終階級 | 大佐 |
戦闘 | 南北戦争 |
若年期と初期のキャリア
編集フォスターは、1836年3月2日にインディアナ州ピーターズバーグの農夫の息子として生まれ、エバンズビルで育った。
両親は息子が伝道師になることを望んでいたが、本人は法律家になりたいと思っていた。開学したばかりのインディアナ大学を1855年に卒業した後、ハーバード・ロー・スクールに入学した。卒業後、オハイオ州シンシナティに移り弁護士となった。
1861年に南北戦争が勃発すると、フォスターは北軍に志願した[1]。第25インディアナ義勇歩兵隊、第65インディアナ義勇乗馬歩兵隊、第136インディアナ義勇歩兵隊に所属し、少佐から大佐まで昇進した。フォスターが率いる部隊は、アンブローズ・バーンサイド少将のノックスビル方面作戦が成功した後に、テネシー州ノックスビルに一番乗りした。
終戦後、フォスターはインディアナ州に戻り、弁護士としての仕事に加えて、『エバンズビル・デイリージャーナル』紙の編集を行った。フォスターはこの新聞を、共和党の政策を広めるために利用した。
政界でのキャリア
編集その後フォスターはワシントンD.C.へ移り、ユリシーズ・グラント大統領のもとで働いた。フォスターは、ニューヨーク州ヘンダーソンに別荘を持っていた[2]。第1次グラント政権でのスキャンダルや汚職の多発の結果、1872年の大統領選挙では共和党が分裂し、改革派はグラントの対抗馬としてホレス・グリーリーを擁立した。フォスターはグラントを支援し、その報酬として、その後の歴代の共和党の大統領、グラント、ラザフォード・ヘイズ、ジェームズ・ガーフィールド、チェスター・アーサーは、フォスターを各国のアメリカ大使に任命した。フォスターは1873年から1880年まで在メキシコ大使、1880年から1881年まで在ロシア大使、1883年から1885年まで在スペイン大使を務めた。
ベンジャミン・ハリソン政権において、フォスターは国務省の紛争調停役として活動した。国務長官のジェイムズ・G・ブレインが1892年6月5日に辞任し、フォスターがその後任として同年6月29日に就任した。在任中、フォスターはハワイ併合を指揮した[3]:11。就任から8か月後の1893年2月23日、ハリソン大統領の任期終了に伴い、国務長官を退任した。
国務長官を退任して公職を退いた後も、フォスターはワシントンに留まった。そして、政界への便宜や国外進出の機会を求める大企業のためのロビー活動を行うという、新しいスタイルの弁護士活動を始めた[3]:12。また、政界とのコネを利用して、いくつかの在米大使館と顧問弁護士の契約を結んだ。その他、外交使節団として大統領に同行した。フォスターは、8か国との貿易協定を締結し、イギリスとロシアの間のベーリング海でのアザラシ猟に関する協定を仲介した。また、清朝の法律顧問として、列強との不平等条約改正の交渉を行い、日清戦争後の下関条約締結に関わった[3]:12[4]。
1903年に"American diplomacy in the Orient"(東洋におけるアメリカ外交)[注釈 1]、1904年に"Arbitration and the Hague Court"(仲裁とハーグ裁判所)、1906年に"The practice of diplomacy as illustrated in the foreign relations of the United States"(外交の実践―アメリカ合衆国の外交関係を例にして)[5]を発行した。この他にも多くの著書がある。
家族
編集フォスターは1859年にメアリー・パーク・マクファーソン(Mary Parke McFerson)と結婚した[6]。5人子供をもうけたが、成人まで成長したのは娘2人だけだった。フォスターは孫を溺愛し、開拓時代や外国での話を聞かせた。
娘のエディス(Edith)は、長老派の牧師アレン・メイシー・ダレス(Allen Macy Dulles)と結婚した。その子供には、国務長官のジョン・フォスター・ダレス、CIA長官のアレン・ウェルシュ・ダレスなどがいる。
娘のエレノア(Eleanor)は、国務省の法律顧問で、後に国務長官となるロバート・ランシング(Robert Lansing)と結婚した。
死去
編集フォスターはワシントンD.C.で1917年11月15日に死去した。遺体は故郷のエバンズビルのオークヒル墓地に埋葬された[7]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 日本語訳『米国の対東外交』大庭寛一訳、大日本文明協会、明治45年
出典
編集- ^ “Biographies of the Secretaries of State: John Watson Foster”. U.S. Department of State, Office of the Historian. June 17, 2014閲覧。
- ^ Haddock, John A. (1895). The Growth of a Century As Illustrated in the History of Jefferson County, New York, from 1793-1894, Weed-Parsons Printing Company, Albany, NY, p. 574
- ^ a b c Kinzer, Steven (2013). The Brothers: John Foster Dulles, Allen Dulles, and Their Secret World War. Times Books l
- ^ “John W. Foster”. Internet Accuracy Project. June 17, 2014閲覧。
- ^ Foster, John Watson (1906). The practice of diplomacy as illustrated in the foreign relations of the United States. Boston, Massachusetts: Houghton, Mifflin and Company
- ^ “Foster, John Watson”. American National Biography (2000年). doi:10.1093/anb/9780198606697.article.0500247. 2022年4月8日閲覧。
- ^ “John W. Foster, Noted Evansville Man, Dies / Lansing Coming to Evansville for the Burial”. Evansville Press: p. 1. (1917年11月15日) 2022年3月25日閲覧。
参考文献
編集- Devine, Michael (1981). John W. Foster: Politics and Diplomacy in the Imperial Era, 1837–1917. London: The Ohio University Press. ISBN 0-8214-0437-7
外部リンク
編集- ジョン・W・フォスターの著作 - LibriVox(パブリックドメインオーディオブック)
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