ジョン・ヒンクリー

アメリカの元服役囚、レーガン大統領暗殺未遂事件の実行犯

ジョン・ウォーノック・ヒンクリー・ジュニア(英語:John Warnock Hinckley, Jr.1955年5月29日 - )は、1981年3月30日に当時の大統領だったロナルド・レーガンを銃撃した犯人。映画『タクシードライバー』に出演したジョディ・フォスターに恋してストーキングを行い、同映画のストーリーに影響を受けつつ大統領暗殺未遂という事件を起こした。

ジョン・ヒンクリー・ジュニア
John Hinckley, Jr.
1981年3月30日、逮捕時の写真(25歳)
生誕 (1955-05-29) 1955年5月29日(69歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 オクラホマ州アードモア
現況 釈放
罪名 殺人未遂など13の罪
刑罰 心神喪失により無罪
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生い立ち

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1955年5月29日にオクラホマ州アードモアで、父のジョン・ウォーノック・ヒンクリー・シニアと母のジョアン・ムーア・ヒンクリーとの間に3人兄弟の末子として誕生した。父親は軍隊を経て戦後は石油業界で活躍し、自ら石油会社「ヴァンダービルト・エナジー」社を設立し、社長として成功して財をなしていた人物であった[1]。ジョンはそのような裕福な一家で将来活躍することを期待されつつ誕生したのであった。

幼年期・少年期はテキサス州コロラド州で過ごした。ジョンにはスコットという優秀ながおり、ジョン自身も小・中学校では成績優秀なスポーツマンで人気者であった[2]。しかし高校に進学する頃になると状況は一転し、ジョンはスポーツもせず・友人も作らず・女の子とデートもせず・家に引きこもり・ギターをかきならす日々を送るようになった[2]。兄が優秀でエリートの道を進みつつあったのに対し、ジョンは落ちこぼれてしまい、精神的に追い込まれてゆく。1973年から1980年までテキサス工科大学休学と復学を繰り返した。で黒人と同室になると黒人を嫌い、白人至上主義の本を読みふけるようになった[2]1976年にはソングライターになることを望みロサンゼルスに行くが成功しなかった[3]。その頃彼が両親宛てに送った手紙は、自分の身の上の不運を嘆く言葉と金銭的援助を請う言葉で満ちている。そして彼はコロラド州エバーグリーン英語版の両親宅へ戻った。地元のレストランで下働きのアルバイトを数か月した後に再びカリフォルニアに戻ったり、大学に戻ったりの生活をしていた[2]。この頃体調不良を訴えて大学のクリニックにしばしば通い、精神安定剤抗うつ薬を飲み始める[2]を購入し、1979年には白人優位と保守主義を唱える政治サークルを結成し、1980年には「Listalot リストアロット」という名の名簿販売会社を設立した[2]

ジョディ・フォスターへのストーカー行為

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映画『タクシードライバー』を観たヒンクリーは、同映画の中で売春婦役を演じたジョディ・フォスター一目惚れし、自分の「運命の女」だと思い、偏執的な恋心を抱くようになった。だがジョディが映画スターの道を歩んでいるのに対し、ジョンは人生に行き詰まっており、2人には何の縁も無く、近づくことも叶わなかった。ヒンクリーができることといえば精々自分の部屋の壁にフォスターの写真ブロマイド類を多数貼り付け、それにキスをすることくらいであった。

その後もずっとフォスターに対して強い想いを抱き続けたヒンクリーは、フォスターがイェール大学に入学したことを知ると、それを利用してフォスターに接近する方法を探った。しかしイェール大学は全米ランキング4位に位置する名門大学・難関大学であり、基本的に成績優秀な学生しか入学できない。成績も悪く落ちこぼれたヒンクリーにとっては、とてもではないが同大学に入学することなどできなかった。そこで彼が思いついたのは同大学の聴講生になることであった。聴講生としてならば(正規の大学の単位は出ないが)特に難しい試験・面接など経なくても簡単な手続きで同大学の教室に入り、講義を聴くことができるのである。ヒンクリーはコネチカット州ニューヘイブンに引っ越し、同大学でフォスターが選択・出席している講座・教室を調べ、それに潜り込むようになった。だが大教室などでフォスターの姿を見つけても、ヒンクリーは声をかけることもできなかった。教室にいた男子学生たちの中には、ごく自然にフォスターに声をかけ普通に会話をする者たちもいたが、ヒンクリーにはそれもできなかったのである。

ヒンクリーはフォスターをつけまわし、フォスターのアパートを見つけた。また、彼女の情報を執拗に調べまくり彼女の電話番号も知った。そして、彼女の自宅のドアの下に自作の詩を書いたメッセージを挟み込んだり、繰り返し電話をかけるなど、ストーキング行為を繰り返した。ヒンクリーの気持ちとしては、自分は映画の主人公のようにフォスターを救う騎士になったつもりであった。だが、ヒンクリー自身が残した電話の会話の録音には、(第三者が聞けば)フォスターからはっきりと拒絶されていると判るやりとりがあったのである[2]

後の捜査や裁判で提出された証拠・証言類によって判明したことによると、ヒンクリーが電話でフォスターに接触するのに成功したのは2度でしかない。フォスターはヒンクリーからの最初の電話を受けた時は、(まともな)ファンの一人かも知れないと思い、とりあえずあまりきつく拒絶するのは止めたという。2度目の電話ではフォスターははっきりときつい口調で、「もう電話をかけてこないで」と伝えた。(そのやり取りは証拠として提出された録音に残っている。)それ以降、ヒンクリーは何度フォスターの番号をダイヤルしてもつながらなくなった。というのは、フォスターが自分の身辺で起きているいくつもの兆候から異常を感じ取り、誰からの電話にも一切出なくなったのである。

フォスターとの接触に失敗したヒンクリーは何とかしてフォスターの注意を引くために、飛行機をハイジャックして彼女の前で自殺するという計画を考えたが、それは断念した。ヒンクリーは「自分が大統領暗殺という大事をやり遂げれば、フォスターが自分を認めてくれる」との妄想にもとづいて、大統領の暗殺を企て始めた。ヒンクリーが大統領暗殺を考え始めた当時はカーター大統領の在任中で、カーター大統領を州から州へと追いかけたが、警備が厳重なので簡単には狙撃を実行できず、テネシー州ナッシュビルで重火器不法所持の罪で逮捕された。無一文になった彼は家に帰り、神経衰弱と抗うつ薬の飲み過ぎを案じた母親によって地元の精神科医に連れていかれたが[2]、改善しなかった。この頃連邦捜査局に「恋愛問題が理由でフォスターが何者かに誘拐される恐れがある」と匿名の手紙を出している[2]

1980年にジョン・レノンが射殺されると、ビートルズの大ファンだったヒンクリーはすぐにニューヨークに飛び、セントラル・パークの追悼集会に参加した。帰郷後、射殺犯マーク・チャップマンが使ったのと同じ銃を購入した[2]

1981年になると、再びフォスターに手紙を届けにニューヘブンに向かったあと、フォスターの代わりに彼が“救える”若き売春婦を求めてニューヨークに滞在した。レノンの命日には事件現場で自殺しようとダコタ・ハウス前に行ったが、果たせなかった[2]。実家に戻ると、自立するよう父親から言われ、多少の金を渡され家を出された[2]。再び大統領の暗殺を企て、新たに大統領に就任したロナルド・レーガンを狙撃することを計画し始めた。

ヒンクリーはレーガン狙撃事件の直前にフォスターに宛てた手紙を書いた[4]

過去7ヶ月にわたって私はあなたに対して多くの詩、手紙、愛のメッセージを送りました。そうすればあなたは私に興味を持ってくれるかも知れない、という望みは虚しいものとなりました。私たちは2度電話で話したけれど、私はあなたに厚かましく近づいて自己紹介することはありませんでした...。 私が今この計画を進めるのは、もうこれ以上、あなたに憶えてもらうことを待ってはいられないからです。-ジョン・ヒンクリー・ジュニア

[注 1]

レーガン大統領狙撃

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1981年3月30日にワシントンD.C.のヒルトン・ホテルで、レーガンがAFL-CIO会議で演説した後にホテルを出ようとしたところで、ヒンクリーは回転式拳銃を続けざまに6発発射した。弾丸は大統領用車両に跳ね返ってレーガン大統領の胸部に命中し、報道官ジェイムズ・ブレイディ、警官のトマス・デラハンティ、シークレット・サービスのティモシー・マッカーシーにも当たり負傷させた。ヒンクリーは逃亡しようともせずその場で身柄を拘束された。

レーガン大統領はジョージ・ワシントン大学病院で4時間ほどに及ぶ緊急手術を受けて助かった。ブレイディ報道官は頭部に弾丸を受けたため、永久に障害が残ってしまった。マッカーシーとデラハンティは幸いにも軽傷で済んだ。

ヒンクリーの使用した拳銃はローム RG-14 リボルバー22口径、1と7/8インチの銃身長であった。シリアルナンバーはL731332。俗にサタデーナイトスペシャルと称される低価格の安物銃であった。

裁判と措置

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1982年の裁判でヒンクリーは13の罪で起訴された。裁判の行方に関わる重要な争点の1つは、ヒンクリーの精神状態をどう見なすかという点であった。弁護側が提出した精神医学上の報告書では、彼は精神の病気に罹っているとされたが、検察当局の報告書は彼が法律上健全であるとした。結局6月21日に「ヒンクリーは精神の病気にかかっており、責任能力が無い」との判断で無罪判決が出された。

ヒンクリーは精神の病気で責任能力がないと判断され、無罪判決になった被告人を処遇する法律に基づいて、ワシントンD.C.の聖エリザベス病院英語版に強制隔離入院させられた。ヒンクリーは両親の監督下に1999年に仮退院を許可され、2000年には監督なしでの仮退院が許可された。その後ヒンクリーがフォスターに関する資料を密かに病院に持ち込んでいたことが判明したが、2016年7月釈放が許可された[5]。8月5日に釈放され以後母親と同居している[6]。9月10日には精神科病院を退院[7]。その後、精神状態が安定しているとして、2022年6月15日をもって全ての行動制限措置が解除された[8]

判決に対する社会の反応

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ヒンクリーに対して無罪判決が出たことはアメリカ社会で広く波紋を引き起こした。マスコミ報道でもその問題点が多数書かれた。大半のアメリカ市民も納得できず、判決を下した裁判所にも一般市民から抗議の手紙が1000通以上届いたという。

そうした抗議の反応は、下院議会及び多くの州において精神異常者の犯罪に対する法律を改正することにつながった。アイダホ州カンザス州モンタナ州ユタ州の4つの州が免罪措置を全て廃止した[注 2]

その後

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  • ヒンクリーの両親は、息子と事件のことを綴った本『ブレイキング・ポインツ』を出した。
  • ヒンクリーはフォスターを「他の男には絶対に渡したくない」と語っていた。フォスターはこの事件がきっかけで男性不信になりレズビアンになったのではないかと噂されたが、フォスターは「タクシードライバー」に出演するかなり前から自分が同性愛だと言うことに気付いていた。つまりヒンクリーがフォスターを知った時にはすでにヒンクリーだけでなく、世界中の男性がフォスターを振り向かせるチャンスは無かった。

音楽家として

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ビートルズボブ・ディランニール・ヤングの影響からギターを嗜み、事件前にはハリウッドに移り住むということもあった。2022年に行動制限が解除されると、本格的に音楽家としての活動を始め、YouTubeiTunesなどにギターの楽曲を投稿した[3][9]。シンプルな旋律とストレートな歌詞から若者の心をつかみ、YouTubeの総再生回数は約120万回、登録者数は約3万人にのぼる[注 3][3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 原文は次の通りである。
    Over the past seven months I've left you dozens of poems, letters and love messages in the faint hope that you could develop an interest in me. Although we talked on the phone a couple of times I never had the nerve to simply approach you and introduce myself.... The reason I'm going ahead with this attempt now is because I cannot wait any longer to impress you. —John Hinckley, Jr.
  2. ^ ヒンクリーの事件に先立つ裁判では、重罪事件の裁判の2%未満で精神異常での免罪が適用され、その80パーセントが敗訴したのであった。
  3. ^ 2023年3月19日時点。

出典

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  1. ^ John (J.W.) "Jack" Hinckley, Sr
  2. ^ a b c d e f g h i j k l The John Hinckley Case Crime Library
  3. ^ a b c 高木良平 (2023年3月8日). “(80億人の旋律)米大統領を撃った男 自責の念抱え音楽家に”. 千葉日報: p. 9 
  4. ^ Letter written to Jodie Foster by John Hinckley Jr”. University of Missouri–Kansas City School of Law. 2011年10月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月19日閲覧。
  5. ^ Reagan Shooter John Hinckley Jr. Granted Release From Washington DC Mental Hospital - KTLA(2016年7月27日)
  6. ^ Would-be Reagan assassin John Hinckley Jr. to be freed after 35 years”. washingtonpost.com. July 27, 2016閲覧。
  7. ^ “レーガン大統領暗殺未遂のヒンクリー氏が退院、90歳母との生活へ”. AFPBB News (フランス通信社). (2016年9月11日). https://www.afpbb.com/articles/-/3100521 2016年9月11日閲覧。 
  8. ^ “レーガン大統領銃撃犯「自由」に 41年ぶり行動制限解除”. 共同通信 (共同通信社). (2022年6月16日). オリジナルの2022年6月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220616033409/https://nordot.app/909939960716361728 2022年6月16日閲覧。 
  9. ^ “レーガン大統領暗殺未遂のヒンクリー氏 音楽活動に込める思い”. AFPBB News. (2022年12月24日). https://www.afpbb.com/articles/-/3430576 2024年1月4日閲覧。 

関連項目

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  • 陰謀のセオリー - ジョン・ヒンクリーについて登場人物が言及するシーンがある。

外部リンク

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