ジョン・パクソン
ジョン・パクソン(John MacBeth Paxson、1960年9月29日 - )は、アメリカ合衆国・オハイオ州デイトン出身の元プロバスケットボール選手で元アシスタントコーチ。引退後、NBAシカゴ・ブルズのアシスタントコーチ、球団副社長、GMを務めている。
2009年、ホワイトハウスでのパクソン | |
シカゴ・ブルズ | |
---|---|
ポジション | PG |
役職 | 球団副社長 |
基本情報 | |
愛称 | Pax |
国籍 | アメリカ合衆国 |
生年月日 | 1960年9月29日(63歳) |
出身地 | オハイオ州デイトン |
身長(現役時) | 188cm (6 ft 2 in) |
体重(現役時) | 84kg (185 lb) |
キャリア情報 | |
出身 | ノートルダム大学 |
NBAドラフト | 1983年 / 1巡目 / 全体19位[1] |
サンアントニオ・スパーズから指名 | |
選手経歴 | |
1983-1985 1985-1994 |
サンアントニオ・スパーズ シカゴ・ブルズ |
指導者経歴 | |
1995-1996 | シカゴ・ブルズ(AC) |
受賞歴 | |
選手時代
コーチ時代
| |
Stats Basketball-Reference.com | |
学生時代
編集NBA
編集大学を卒業したパクソンは、1983年のNBAドラフトで1巡目全体19位でサンアントニオ・スパーズに指名された。スパーズで2シーズン過ごした後、フリーエージェントとなりシカゴ・ブルズに移籍、9年間所属し、マイケル・ジョーダンを支える選手として最初の3連覇に貢献した
伝説の3ポイントシュート
編集パクソンの最も有名なプレイは、マイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズとチャールズ・バークレー率いるフェニックス・サンズが対峙した1993年のNBAファイナルの6戦目であった。ブルズの一員として活躍を続け3勝2敗で王手をかけたが、フェニックスのアメリカ・ウェスト・アリーナ (現:トーキング・スティック・リゾート・アリーナ) で行われたこの試合は、第4クォーター残り時間わずかで96対98の2点差でブルズはリードを許しており、このままでは第7戦にもつれ込むことは確実であった。タイムアウト後、ジョーダンが敵陣にドリブルで入り、スコッティ・ピッペンにパス。ピッペンからのボールを受けたホーレス・グラントがゴール下でディフェンスをひきつけた後にパクソンにパスを送り、ノーマークで3ポイントシュートを放った。この3ポイントシュートが決まり、残り時間3秒で試合を99対98とひっくり返した。その後サンズはタイムアウト後、ケビン・ジョンソンが逆転のレイアップシュートを狙うものの、グラントが後ろからブロックショットを決め試合終了。試合後ピッペンは、「タイムアウトの指示通りにプレーすることができた。パックス (パクソンの愛称) にボールが渡った瞬間、"よし!これは決まった!"と確信したよ」と振り返った。この伏兵の1投で、ブルズは最初の3連覇を決めたのだった。
引退後
編集1994年に引退した後、95-96年シーズンにフィル・ジャクソンに請われてブルズのアシスタントコーチに就任している。その年ブルズはマイケル・ジョーダンの復帰後最初の優勝を果たす。パクソンはその後家族を優先したいという理由で、アシスタントコーチを辞任、ジョーダンがワシントン・ウィザーズのフロントに加入したときも、ジョーダンからヘッドコーチ就任を依頼されたが同様の理由で断っている。
その後、ブルズ専属のアナウンサーになった。
2003年4月にブルズの副社長になり、アナウンサーの地位を退く。同年の夏にジェリー・クラウスの退任に伴い、ブルズのゼネラルマネージャーに就任した。現在はゼネラルマネージャーを退き、球団社長を務めている。
脚注
編集外部リンク
編集- 選手の通算成績と情報 NBA、Basketball-Reference、Eurobasket、RealGM